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フライトナイト-6

右条の揶揄めいた台詞が鈴木さんの弱々しい願いを遮った。 窓ガラスを伝ってその場に崩れ落ちた彼女を見下ろし、彼はスーツのポケットに両手を突っ込む。 傍から見れば女の子をいじめる性質の悪い会社員に他ならなかった。 我慢できなくなってそちらへ駆け寄ろうとしたら厳しい一声が飛んできた。 「来るな!」 「だ、だって鈴木さんが……」 「鈴木、中村、吉田に山田!」 突然、右条はみんなの名前を早口で挙げてこちらに顔を傾けた。 「おかしいと思わないのかよ、こんな名前ばっかりで。偽名丸出しじゃねぇか。よくある名前ランキングの上位を占めるの、確実だろ」 「?」 「あ、お前って佐藤か。ったく、ややこしい」 右条が話す様を、鈴木さんは、蹲って震えながら見上げていた。 演技には見えない。 演技をする必要など元からないのだし。 この段階では精神錯乱中の右条の気を静めるのが懸命なのかもしれない。 「あ、あの、右条さーー」 「これに見覚えあるか?」 僕の呼びかけなどそっちのけで、右条は胸ポケットから一枚の紙切れ、いや、古ぼけた写真を取り出して鈴木さんの鼻先に突きつけた。 「ないって事はないよな? そうだろ?」 「!」 僕は息を呑んだ。 鈴木さんの表情が、まるで泣き顔の仮面が外れて、瞬時に別の仮面を被ったみたいに早変わりしたのだ。 「ど、どこでこれを……」 心なしか声色まで変化を遂げたような、いやいやいや、気のせいだよな。 右条は写真を持つ左腕をビクともさせないでニヤリと片頬のみ歪めた。 「そんな事はどうでもいいんだよ。肝心なのは、お前が堕ちた原因がコイツにあるって事だ」 もう十年以上も前の話になるか?  「コイツは同じアパートに住んでいて、同じ大学で、年も同じだった。お前は自分から告ったんだよなぁ? それから仲良く付き合って、仲良くセックスして、三ヵ月後に木っ端微塵に玉砕した。よくある二股ってやつでな。アパートを変えられて一緒に受けていた講義まで放棄されて、徹底的に避けられた」 心なしか、と言える範囲ではなくなっていた。 鈴木さんはまるで般若の面を被っているみたいだった。 僕は人の顔がこうも悪感情を露出できるものなのかと、大量の冷や汗をかいた。 「それからだ。お前が特別を意識するようになったのは」 右条はまだ写真を突きつけている。 鈴木さんはそれを執念の形相で睨みつけている。 僕は、すたこら逃げ出したくなった。 「コイツを見返せるような、誰よりも特別な存在になりたい。そう願う最中に、お前はアイツに出会った。そして奴の下僕にーー」 鈴木さんは凄まじい速さで右条が手にしている写真に……食らいついた。 「おっと」 右条は眉一つ動かさずに後ろへ飛び退いた。 写真は鈴木さんの口の中だ。 彼女は涎を垂らしながら、バリバリバリバリ、写真を貪って嚥下した。 その間に僕がどうしていたかと言うと、見事に腰が抜けて、フロアにへたり込んでいた。 「佐藤君、人を……呼んでください」 僕は鈴木さんの髪がざわめくのを見た。 風もないのに、意志ある生き物じみた動きで、毛先が宙に舞うのを。 「ひぃ~」 「寅彦、見定めてくれたか?」 かろうじて声のした方を向くと、右条が右の袖口から掌へ、あのお化け釘を滑り落とすところだった。 先端に巻かれていた鉄線を解き、素早く逆手に持つ。 次に彼が何をするかは明確で、止めなければ、僕はそう思った。 しかし奮い立った心に体が追い着かず、神経パルスはこんがらがって、僕は平らなフロアに躓いて派手に転んでしまった。 「寅彦!!」 それは緊張感に漲った、危険を知らせる呼び声。 僕は思いきり強打した顔を上げて、寸前に立ちはだかるものをこの目に捉える。 鈴木さんは、いや、醜悪な異形の姿をしたソレは、太い牙を剥き出しにして長く伸びた鉤爪を空に振り翳していた。 殺される!!!! 声にならない悲鳴を上げた次の瞬間、異形を写し出していた視界に別のものが割り込んできた。 鈍い音が鳴った。 鼓膜が振動する。 暗闇がざわめいたような気がした。 「ったく、ウロウロすんなよ」 それは右条の背中だった。 彼は、僕の前に膝を突いて、交差させた二本のお化け釘でもって鋭利な爪を受け止めていた。 「お前等、どうせ、死ぬんだからな」 ガキィ!!!!  爪を払いのけた右条は、目にも止まらぬ俊敏さで異形の懐に潜り込むと、ガラ空きの胸目掛けて、お化け釘を手加減なしに突き立てた。 「ギィェェェェエエエエ!」 二度目なる断末魔が沈黙の校内を駆け抜けた。 右条の蹴りを食らった異形は胸を貫かれたまま後ろへと吹っ飛んだ。 裂けた口の中で無数の牙を蠢かしながら、どす黒い血を振り撒いて。 「ほら、来い」 放心状態であった僕は右条に引き立てられて、ソレの悶絶する様を見せられた。 異形のソレは、もう、鈴木さんの面影を留めていなかった。 血走った眼は瞳孔を欠く白目であり、耳介はやけに尖がって、夥しい剛毛を獣の如く全身の肌に生やしていた。 緩やかにウェーブがかっていた淡い色の髪は一本残らず抜け落ちていた。 「う、わ、あ」 明確な殺傷能力を備えた爪が口惜しげにフロアを引っ掻いていたが、数秒後、ソレはもがくのをぱたりと止めた。 そして驚くべき分解は停止の直後に始まった。 全身が火に炙られてるみたいに煙を上げて、酷薄な鉤爪は砂塵に変わり、煮立った肉は骨と共にみるみる溶け、一気に蒸発して。 靴と服と、お化け釘だけが残った。

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