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フライトナイト-9

僕は自分の耳を疑った。 それまで伏せていた顔を上げ、前方に二つの人影を見つけて、思わず足を止めた。 薄暗くて顔は確認できない。 でも暗闇に響いた声で誰なのか見当がついた。 「いつもハイエナのようにあの方の居場所を嗅ぎつけて、仕える者を屠りにやってくる。浅ましいわ」 「浅ましいのはどっちだ、雑食野郎」 口が悪い男は平然と言い返す。 校内のあちこちに巣食う暗闇をも見透かすような目つきで彼は向こうを一瞥していた。 シャープなラインを刻んだ、鋭くも不真面目な横顔。 口元にはやっぱり人の悪そうな笑み。 静けさはそのままに、柔らかな微笑が奏でられたかと思うと、窓から差し込む月光の元に彼女は現れた。 「死んだ肉を貪る方がおぞましいの」 厳かなスポットライトに照らし出された中村さんは妖しいくらいに綺麗だった。 白い肌はいつにもまして蒼白に。 唇は血の赤にそっくりな口紅で描かれているような。 「生きている肉を食するからこそ。素晴らしい生の実感が得られるの」 アンクルストラップのはめられた足首は折れそうなくらい、か細い。 黒いワンピースに包まれた体もこれみよがしに華奢だった。 彼女こそ本物の吸血鬼なんじゃ……? 僕は今までの説明を根底から疑いたくなった。 「見惚れてるのか?」 恍惚たる世界に溺れかけていた僕はぎこちない動作で隣の右条を見上げた。 「ったく、欺かれてたっていうのに寛容な態度だな」 「だ、だって……」 中村さんは教室一つ分隔てたところに立っていた。 空いた距離を詰めようとする気配はない。 廊下の中央で凛とした立ち姿を崩さずにいた。 彼女はゆっくりと両腕を組み、声を立てて静かに笑った。 「光栄よ、佐藤君。私が貴方に近づいた理由を知った上で、まだそんな風に見つめてくれるなんて」 「中村さん……」 「私、貴方の視線をいつも感じていたの」 眼差しを伏せた中村さんは穏やかな口調で言う。 「私にとっても貴方は大事な存在。あの方に捧げる大事な生餌なんだもの。だから誰よりも丁重に扱ったわ」 「……」 「貴方、幸せな日々が続いて楽しかったでしょう? 誰も与えてくれなかった優しさを毎日貰ったんだから。当然よ、孤独のあまり自殺されたらあの方の空腹が長引く事になってしまうんだもの。それだけは避けなければならない問題だったの」 どうやら右条が教えてくれた内容には多少のズレがあったようだ。 みんなが僕にくれた優しさは本物だった。 偽りのない、本音に満ちたものだった。 ただし対象は餌としての佐藤寅彦。 何の肩書きもない佐藤寅彦に与えられていたわけじゃなかった。 面と向かって言われるとさすがにきつい。 僕は口をつぐんで綺麗な微笑を湛える中村さんに視線を注いだ。 この人も鈴木さんみたいに醜い変身を遂げてしまうんだろうか……? 「それなのに、どうして、裏切るの?」 「え……裏切る……?」 「こっちに来て、私と一緒に行きましょう、あの方が待ってるわ」 「あの方……」 「底意地の悪い男など放って、ね」 彼女から真実を告げられて理不尽な行動をせがまれても。 彼女の微笑に、僕は、ほのかな熱を抱かずにはいられなかった。 ああ、中村さん。 君はどうしてそんな風に綺麗に笑えるの? 「佐藤君、行きましょう?」 「ごめん、僕は……」 隣で右条が大きなため息をついた。 きっと謝る必要なんかないって、言いたかったんだろう。 だけど彼女の言う通り、この意見はみんなの優しさを裏切るものだから。 だから僕が謝るのは当然の礼儀なんだ、うん。 「ごめん、僕は死にたくない」 僕は中村さんから目を逸らさないよう努力して言葉を続けた。 「みんなに優しくしてもらって嬉しかった……それに何もお返しできなくて、本当にーー」 「バーカ!」 いきなり右条の大声に遮られた。 乱暴に振り下ろされた彼の掌に髪の毛をぐしゃぐしゃにされた。 「寅彦、お前間違ってるよ。アイツ等に謝る必要はねぇし、その考え方も」 つんのめった僕は、乱れた前髪越しに、頭上で笑う右条の顔を見つめた。 「本当の優しさってのはな、無償なんだ、無償。寅彦のその考えは邪道だし、欲求する方は根っからのカス。つまりアイツ等も<あの方>なんて言われてる大馬鹿も、どっちも最低のカスなんだよ、ククク」 右条はわざわざ指差して最上級の毒舌を披露した。 指差された中村さんは途端に眉を顰めて不快を露にした。 俗世離れしていた雰囲気にヒビを許すような険しい顔つきだった。 「あの方を侮辱したわね」 自分を下僕にしてくれた吸血鬼その人のために中村さんは怒っている。 人でなくなったはずの彼女に人間味溢れる思いを見出して、僕は、ハッとした。 「ああ、侮辱してやったよ。で、どうする? 変身して俺をブチ殺すか?」 「佐藤を渡せば見逃してやるぜ」 中村さんの背後から二人目の声が飛んできた。 迷彩のジャケットを着込んだ彼は背中を丸めて月明かりにその身を曝す。 「うわ、よく見りゃあ、本当……」 吉田君はヘラヘラ笑いながら上から下まで右条を眺め回した。 どう見ても挑発的な態度、まぁ、普段の彼とあまり大差ない。 先程の台詞が何やら謎めいていたが、彼なりの皮肉か中傷なのかもしれない。 「見逃す必要ないわ」 「な、中村さん」 「三階に上らせては駄目。ここで仕留めて、確実に」 「うぃ~す」 中村さんが踵を返す。 吉田君は彼女の背中を僕達の視界から遮断するように足を開いて立ち塞がった。 右条は相変わらずポケットに両手を突っ込んでいる。 僕は彼が口にしていた台詞が気にかかっていて、小声で、そっと尋ねてみた。 「ねぇ、変身されたら面倒なんだよね?」 「相当な」 なら、この余裕の態度はどこから来るんだ……。 中村さんの足音が遠ざかっていくのに比例して僕の緊張は度合いを増し、どうにも我慢できなくなって右条のスーツを引っ張った。 「ど、どうするの?」 「うーん、今すぐに殺すか」 「変身前にグサリ、ってか?」 吉田君の片目がギラリと光った。 僕は目の錯覚かと何度も瞬きしたが、もしかして変身の兆候なのかと思い至り、さらに力を籠めてスーツを引っ張った。 「ど、どうするの!?」 「こうすんだよ!」 スルリと袖口から掌に落ちたのは例のお化け釘。 それを逆手に持って、その場に僕を残し、右条は吉田君に猛突進した。 振り翳されたお化け釘は虚しく月光を裂いた。 くるりと一回転して退いた吉田君は、中村さんが消えていった方向へと猛スピードで走り出した。 「え、追うのっ?」 見事なアクションにあんぐり口を開けていたら、右条までもが彼を追おうとフロアを蹴ったので、僕も慌てふためいて駆け出した。 吉田君のスピードは尋常じゃなかった。 オリンピック出場も夢じゃないくらいに速かった。 右条も負けず劣らずな速さで、僕だけがどんどん……どんどん……。 「な、何で追うの!?」 「元締めを仕留める時にウロチョロされたら迷惑だからだ!」 その返事は、もう数十メートル向こうから聞こえてきたものだった。 先頭をキープする吉田君は後少しでフロアの突き当たりに行き着く。 特別教室ゾーンらしい、被服室や技術教室と書かれたプレートがぶら下がっていた。 吉田君がある教室に突入した。 右条はその前で立ち止まった。 僕は、息を切らして彼の背後に到着した……。 「ウオオォォォオオオ!」 耳を劈くような咆哮が上がった。 僕は縮み上がった。 右条の背中に思わずしがみついた。

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