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フライトナイト-11

「さて、と……面白いモンでも見せてやろうかねぇ」と、言うなり、彼は仰天していた僕を室内へと引き摺り込んだ。 白いカーテンが引かれた被服室は廊下よりも重たい闇を抱えていた。 後ろに配された棚には何台ものミシンが置かれている。 いくつか床に落とされてケースと本体が別々になっているものがあった。 蛍光灯も複数割れていて真下に破片を散りばめていた。 右条は黒板の隣に設置された掲示板前で深々と項垂れていた。 「右条さん!」 後ろのドアから入らされた僕は、丸イスや裁縫道具などで散らかった床を不安定に蛇行して、右条の元へ駆け寄ろうとした。 が、どうも変だ。 跪いた彼は両手を上にした状態、バンザイのポーズをとったまま微動だにしない。 状態はやや前のめりになっていて、結構つらい体勢のはずだけど……。 「あ」 近づいて、右条がどういう状態であるのかわかって、愕然となった。 「おら……もっと近くで見てやれよ」 容赦なく背中を押されて、バランスを崩した僕は、彼の前に両手を突いた。 顔を上げると目の前に苦痛の色を浮かべた顔がある。 額にじっとりと脂汗が滲んでいた。 右条は両手に黒い裁ちバサミを打ち込まれていた。 「あれ、寅彦……」 俯いていた右条が顔を上げて苦笑する。 僕はどうしていいのかわからず、目を見開いて穴が空きそうな程に彼を見つめた。 「お前、来なくてよかったのに」 「う、右条さん」 「今の俺、ゴルゴダのキリストっぽいよな……いて」 僅かな振動も傷口に響くらしい。 右条は喋った後に露骨に顔を歪めた。 ハサミは掌を貫通して掲示板に突き立っている。 血の流れは帯となって、手首を走る血管の上を辿り、スーツやワイシャツの袖口を赤く濡らしていた。 「正当防衛だぜ?」と、後頭部に呂律の回っていない声が落ちてきた。 「殺そうと向かってくる奴を……グフ、痛めつけた……別に悪い事じゃねぇ」 満月の夜、変身に失敗した出来損ないの狼男を彷彿とさせる半獣。 僕の真後ろに立ちはだかって左手の関節をポキポキ鳴らした。 「ソイツ殺したらさぁ、お前を屋上に連れてくから……あ~、すんげぇ興奮する……何なら食っちゃおうかな」 両手を串刺しにされて身動きできない右条さんを後ろに、卑しく笑う半獣を見上げて、僕は戦慄した。 「た、た、食べるって、右条さんを?」 「他に誰がいるんだよ? グフ、お前は逃げてもいいんだぜ……どうせすぐに追い着くからねぇ。コイツが食われる様を見たくないんなら……そうしとけ」 「バーカ、誰がお前なんかに食われるか」 血を流しながら吐き捨てられた右条の暴言は強がりにしか聞こえなかった。 半獣はその様子を見下ろして満足そうに爪をカチカチ鳴らしている。 あれで彼の皮膚をまたしても裂くつもりなのだろうかと考えたら、心臓の裏側がヒヤリと凍えた。 「好きにしていい、寅彦」 表情に誇張されていた余裕の影はやや薄れかけていた。 それでも右条は弱りを明け透けにせず気楽な調子で僕に言った。 「お前は頑張ったよ。だから。もう十分だ」 「逃げろよ、佐藤。お前には……それが合ってる」 今、非力な僕にできる事は何だろう。 ここから全速力で逃げ出して右条さんが食べられるシーンを拒絶する。 そして運良く校外へ逃げ出して、単調な日々を繰り返していく内に悪夢のような出来事なんか忘れ去って。 居場所の定まらない思いを延々と持て余す。 それとも……。 「腰が抜けて……立てませんかねぇ?」 半獣に揶揄されて僕は強く唇を噛んだ。 「……右条さん、ごめん」 前もって失笑している右条さんに謝っておいた。 これから僕がする事に彼は決していい気分にはなれないと思ったからだ。 「いいって、別に。寅彦はよくやった方ーー」 立ち上がりざま右条さんの右手に両手を伸ばした。 平たい掌を掲示板に縫いつけているのは黒い柄のハサミで、僕はその柄を力いっぱい握って。 死に物狂いでハサミを引き抜いた。 「ッ……!」 さすがの右条さんも喉を詰まらせた。 僕はどうしても傷口が正視できなくて、握った瞬間、目を閉じていた。 だから手にしているハサミを目の当たりにした時には卒倒しそうになった。 「寅彦、お前……」 驚いている右条さんを労わる余裕はなかった。 彼の血で不敵に光る二枚の刃を突き出して僕は半獣と対峙した。 恐怖に捕らわれまいと歯を食いしばって、両足を踏ん張らせて。 「……おいおい、マジかよ」 半獣が大袈裟に両手を広げてみせ、お手上げのポーズをとる。 僕はなるべくソレの右側だけを見るように努めた。 「う、右条さんは食べさせない」 「俺と……タイマン張るっていうのかよ?」 「そ、そんなつもりじゃないけど……こんなのだめだよ!」 途端に半獣は大笑いした。 苦しそうに腹を抱えて唾を撒き散らし、被服室を蔑みの哄笑で満たした。 「ソイツなぁ……もう両手使えねぇぜ。だから諦めろよ、ソイツは……死ぬんだよ」 死なせるもんか。 この人は僕の気持ちに寄り添ってくれた。 そんな人を死なせるもんか! 「つぅかさぁ……何でお前、生きようとすんだ?」 ピタリと笑うのをやめた半獣は傍らにあった教壇をけたたましく蹴りつけた。 「誰にも必要とされてねぇのによ……家族からも……電話、一回もかかってこないんだろ? 落ちこぼれ扱い。お気の毒様だねぇ、ホント」 「……」 「地味で引っ込み思案な自己嫌悪クンなんだから……死んだっていいじゃん。周りも気づかねぇよ。お前の存在自体……知られてねぇんだから」 震えが増していた。 全身が小刻みに戦慄いていた。 シャツが汗でぐっしょり濡れていた。 掴んだハサミを取り落とさないよう僕は籠められるだけの力を両手に籠めた。 「僕は絶対に死にたくない」 そう。 それだけははっきり言える。 誰が何て言おうと譲らない。 だって死ぬの怖いもん!! 「グフ……馬鹿な奴」 「馬鹿はお前だ、出来損ない」

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