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フライトナイト-12
半獣の目線が僕の肩を追い越した。
「誰よりも特別になりたくて奴に血を吸われた。そして、そのザマだ。まぁ確かに特別だよな。世にも醜い面した珍獣だ、どこの動物園にもいねぇよ」
左手を打ちつけられたままの右条は、右手を力なく床に投げ出して、鮮血を溢れさせていた。
「それじゃあ月にも飛んでいけないな、ヴァルコラク」
「ヴァル……?」
耳慣れない言葉を聞いて半獣から意識が逸れた。
しかも、僕は間抜けにも右条の方を見ていて、簡単に隙をつくってしまった。
結果、痛烈な張り手をお見舞いされて頭からドアへとぶち当たった。
「……ッ」
痛い、という言葉も出ないくらい痛かった。
頭の奥がツゥンと鳴って脳みそが痙攣する。
目の前がチカチカ瞬いて、視界が低下する。
「アンタ……そのザマでよくそんな事が言えるのな」
視界は徐々に回復していった。
血を流す右条さんに半獣が差し迫っていて、どちらが圧倒的に有利なのかは一目瞭然だった。
「最初は右腕をもぎ取ってやる。次は左腕だ……グフ」
立ち上がろうとしたら強烈な目眩に襲われて膝を突いた。
すでにハサミは手から失われている。
声を出すのもままならなくて僕は拳を握った。
「ったく、本当に不細工だな。不細工なドブス精神にぴったりだよ、その面は」
半獣は憎まれ口を叩く右条の顔を右手で固定すると、よく研がれた鉤爪を頭上に翳した。
「右腕の前に、目だ……抉ってやらぁ」
薄闇の中でそれはおぞましい光を放っていた。
右条は寸分も抗わないでされるがままだ。
容易に想像のつく成り行きに僕の呼吸は止まりかけた。
「本当に馬鹿だよ」と、右条は呟いた。
「お前、俺が何かわかってんのか?」
その瞬間、とてつもなく惨たらしい、肉を断つ音が静寂に呑み込まれた。
「な」
半獣の右目が零れんばかりに見開かれた。
「な、ん、で?」
次に血を流すのは優位に立っていたはずの。
「手が使えないと思ったか?」
右条の左手に突き刺さっていたはずの刃が迷彩のジャケットにめり込んでいる。
「バーカ、使えるんだよ」
右条は血に塗れた両手で黒い柄を握り締めていた。
「お前の方から迂闊に近づいてくるのを心待ちにしてたんだ、ククク」
彼は自分に突き立てられていたハサミを自ら一息に引き抜き、半獣に返上したのだ。
「クソッ、マジかよ!」
右条に渾身の蹴りをお見舞いされて。
半獣は腹部にハサミを突き立てたまま真後ろの長机上に引っ繰り返った。
間髪入れずに右条はその長机に飛び乗る。
血を吐き散らすソレを跨いで、お化け釘を手にし、自分の体重をかけて一気に振り下ろした。
逞しく膨れ上がった左胸が猛然と穿たれる。
長い絶叫が放たれて、僕はそれを最後まで聞き終える事なく、今日で二度目になる失神を出迎えた……。
どこか遠くで優しい旋律が奏でられている。
だけど優しいだけじゃなくて悲しさを含んだ音色でもある。
胸に染み込むような演奏だった。
「ん……」
寝返りを打って、片腕が壁に当たり、その感触で僕は完全に目を覚ました。
そうだ、右条さんや吉田君は……。
「目、覚めた?」
上体を起こした僕は顔を上げ、頭上でニヤニヤと笑んでいる右条を見つけた。
「また大声でも出す?」と、彼は尋ねてきた。
随分前に思える、最初の遭遇を思い出し、僕は赤面した。
「ここ、実は三階。ラスボスまで後一息ってところだな」
「……吉田君は?」
「遺品はこの中」
あの大きなバッグが右条の足元にあった。
どうやら僕が今の今まで枕代わりに使っていたようで、不謹慎だとちょっぴり思いつつも、有難い親切として受け取っておく事にした。
ここは新校舎ができて不要になった教室らしい。
机やイスは後方にまとめられている。
運動会か文化祭にでも使用される立て看板、ペーパーフラワーが入ったビニール袋などがいくつも置かれていた。
現在は物置として使われているのだろう。
カーテンのない、散らかった室内だった。
ピアノによる演奏はまだ続いていた。
「この音……」
「あの下僕だろ。ノクターン。夜想曲さ、耳にタコができる」
中村さんが弾いてるんだ……。
僕はいつまでも聞き惚れていたい気分になりかけたが、ふと視界を右条の手がよぎって、そんな気分は綺麗さっぱり吹き飛んだ。
「右条さん、手……」
右条の両手は包帯で覆われていた。
血が少し滲んでいる。
痛々しいあの有り様が脳裏に蘇って僕の心臓は一際大きく脈打った。
「大丈夫なの……?」
「ああ。寅彦の方こそ大丈夫か? 頭からぶつかっただろ?」
「僕は全然……」
右条が僕の真横に立つ。
座り込んだままの僕はジーパンに包まれた両膝を抱いて深く俯いた。
「ごめん、僕、何もできなくて」
手も足も出ないというのは正しくああいう状況を差すのだろう。
右条に申し訳ない限りである。
いつも助けられているくせに、彼がピンチの時には、何の役にも立たない。
本当、僕って奴は……。
「寅彦はすごかったよ」
嫌味の一つでも言われたのかと思って僕は益々しょげ返った。
「自慢するわけじゃあないけど。俺は今まで下僕に誘惑された生餌の何人かを助けてきた。全員、事実を知るなり逃げ帰ったよ。ケジメをつけるために残った人間は一人もいなかった。一人も、な」
膝にくっつけていた顔を上げると腰を屈めた右条の顔がすぐそこにあった。
「ましてや俺を助けてくれた人間も」
右条は包帯が幾重にも巻かれた手を伸ばして僕に触れてきた。
微かに鉄っぽい血の匂いがする。
そんなに嫌じゃない、百合の強い芳香にも似た香りだった。
彼は猫を撫でるみたいに僕の耳元の辺りを擦りながら言った。
「助けてくれたの、寅彦だけだ」
「……僕、助けてない」
「助けたよ。寅彦は自分の本当の強さに気づいていないんだな」
「本当の強さ?」
初めて言われた言葉。
どういう意味を持つのか知りたくて、真剣に彼を見つめてみる。
右条はクククと笑った。
「キスしてほしいのか?」
こういう状況下で、よくそういう冗談が言える。
しかも二度目。
本当、からかうのにも程がある……。
僕が呆れて口を尖らせていたら右条はまたもクククと笑った。
「俺は、したいな」
そう言い終えたのと同時に、何と、彼は冗談そのものとしか思えない行為を本当にやってのけた。
キスしたのだ。
僕の口に。
何の了解もなく。
もしかしてまだ睡眠中で夢を見ているんだろうか、と思った。
「……ちょっと、右条さ……」
唇を開いて喋ろうとしたら生温かいものが口の中に入ってきた。
それは下唇をそっと確かめるようになぞって、次に歯列を越え、硬直気味の僕の舌に纏わりついた。
優しいのかそうでないのかイマイチわからない、変に癖のある動きだった。
「う、右条……」
声を発したら舌が浮いて瞬く間に器用に絡め取られた。
もう夢だと感じられるレベルじゃない。
リアルすぎる感触に僕は逆上せて、これはマズイと顔を離しにかかった。
「駄目だって」と、右条は僕の首根っこを負傷した手で押さえた。
「ななな、何でキスなんか!」
「したいから。なぁ、暴れたら出血するだろ。俺の手、再起不能にするつもり?」
右条は僕の隙を見逃さなかった。
引っ張り上げて両膝を突かせると、顔が上を向くよう白い両手で支えて、また唇を落としてきた。
「う」
閉じる暇もなくて、再び口内への侵入を許してしまい、僕は目を白黒させた。
右条は含み笑いを浮かべている。
薄目を開けていて、そこから注がれる眼差しは何て言うか……女の子なら一秒で恋に落ちてしまいそうな色気があった。
だけど僕は女の子じゃなく男なので、ただ困惑して、濃厚に動き回る彼の舌に翻弄されるしかない。
際どい緊張感に背筋を強張らせて、スーツの襟を握って。
丁寧に解されていく過程を痛感しながら。
長いようでいて短いとも思えた複雑なセカンドキスだった。
「ハイ、おしまい」
僕は開きっ放しだった目をやっと瞬かせた。
残された余韻がひどく恥ずかしい。
きっとキスをしていた最中よりも今の顔の方が赤くなっているだろう。
「寅彦が熟睡してたから大分時間をロスした」
再起不能と言っておきながらもう完治したのか、右条は右手を使って僕を立ち上がらせると、淡々と告げた。
「夜明けは間近だ。早いとこ決着つけなきゃな」
下ろしていたバッグを肩に担いで、さっさと教室を出ていこうとする。
僕は彼の気紛れさにただただ呆れ返った。
大人なのか子供なのかよくわからない人だよな……。
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