175 / 195
フライトナイト-13
「ここだ」
右条の真後ろにいた僕は慌てて急ブレーキをかけた。
音楽室、と白い塗料で書かれたプレートが頭上にぶら下がっている。
やんでいた演奏が再び始められて、聞き覚えのあるその音色は、この上なく哀しげで憂鬱な音符に敷き詰められていた。
「月光か。凝った選曲だな、酔いしれやがって」
右条が不躾に立て付けの悪いドアを開いても演奏は中断されず緩やかに流れ続けた。
薄闇の中、黒く光るグランドピアノに向かって、中村さんが白い指先を鍵盤の上で躍らせていた。
無数のため息をつきたくなる幻想的で見目麗しい後ろ姿だった。
「!」
いいムードを打ち破るように、右条が袖口から掌へとお化け釘を滑り落としたものだから。
僕は思わず彼の腕にしがみついて頭を振った。
「だ、駄目!」
「おい、寅彦」
「お願いっ、な、中村さんだけは……」
演奏がピタリと止まった。
「……中村さん……」
それまでピアノに注がれていた視線がドア口に立つ僕達の方へゆっくりと移動した。
何の警戒も示していない、むしろ友好的な顔つきだった。
おもむろに笑いかけられて僕の心臓はほのかに甘く痺れた。
「吉田君ったら、油断したのね。全力でかかれば倒せたものを」
「変身の仕組みも呑み込めてないルーキーなんぞにヤられてたまるか」
この教室は他と比べて広い造りになっていた。
後ろには鉄琴や木琴、タイコなどの楽器が置かれている。
ずらりと飾られた古の音楽家達の肖像画。
カーテンの合間から洩れる薄明かりに陰鬱な色使いが強調されていた。
黒板前に配置されたピアノの蓋を閉めると、中村さんは、立ち上がって体ごとこちらを向いた。
「寅彦、手、離せよ」
右条が彼女を見据えたまま僕に言う。
苛立ちや怒りは感じられない物言いで、少し疲れたような重さがあった。
「アイツは、寅彦が庇ってくれる事を承知の上で余裕こいてんだ。だから敢えて変身しない。お前を利用してる」
「うん」
「うん、って。お前な」
右条の袖口が血で汚れていた。
たとえ傷が奇跡的な速度で回復していたとしても、その時に味わった痛みは相当つらかったはずだ。
彼はその痛みを乗り越えて吉田君を倒そうと奮闘した……下僕を根絶やしにするという目的のために。
今まで助けられてきた分際の僕に、彼の目的を未完に終わらせる権利はない。
「好きだった人に苦しい思いなんかさせたくないよ」
だけど君だけは死なせたくない。
この世から跡形もなく消え去ってしまうという、惨たらしい宿命を遂げさせたくない。
僕は君を守るって自分に約束したんだから。
「……純粋な人ね」
また、中村さんは眼差しを伏せた。
校内で初めて巡り合って、僕に真実を教えてくれた時と同じように。
「貴方みたいな人と……」と、何かを言いかけて口をつぐむ。
そして彼女は臆する事なく歩き出した。
前を通り過ぎる際に、翻った髪から何十日分の回想が脳裏に打ち寄せて、泡沫みたいに消え去った。
「やれやれ」
ドアが恭しく閉められて最低の我侭を聞き入れてくれた右条は肩を竦めた。
「……右条さん、ごめーー」
「謝るな」
ぎゅっと、手を握られる。
包帯越しに感じた体温は、胸に広がりつつあった淋しさを急ピッチで溶かしていく熱を擁していた。
「寅彦らしいよ」
左手で僕をいざない、右条はお化け釘を持った右手で勇ましくドアを開け放つ。
「元締めを仕留めりゃあ済む話だ」
誰もいない廊下、その声は憂鬱な暗闇を一掃するんじゃないかと思えるくらい、不敵に響き渡った。
両開きのドアを開いた瞬間、顔面に突風を浴びた。
「もう暁だよ、右条」
咄嗟に顔の前に腕を翳した僕は聞き覚えのない声を耳にする。
細目で窺ってみると、ガランとした屋上の中央に一人の男が佇んでいた。
「また徒労に終わっちゃったね」
東の空が白んできている。
煌々と輝いていた満月は西へと逃げ、月光は白っぽい靄に蝕まれて今やその神秘性を失おうとしていた。
「血も大分なくしたみたいだね、無理しちゃって」
金色の月の色を思わせる髪が弱まった風に靡いている。
黒ずくめの格好はスラリとした体型になかなか似合っていて、右条の言っていた通り、目は赤い煌めきを帯びていた。
「う、右条、あの人……」
僕は目の錯覚かと思い、隣に立つ右条と黒ずくめの男を何度も見比べた。
「すごく……すっごく似てるよね?」
「兄弟なんだもの、当然よ」
男に気を取られていた僕は、四方を囲む鉄製の手摺りにもたれている中村さんの存在に、それまで全く気付かずにいた。
「顔は似ているわ、でも内に抱えるものは大きく違うの。素晴らしさは雲泥の差よ」
彼女は僕達に背を向けていた。
両手で手摺りを握って遥か上空を見上げている。
蒼茫たる空気に浸った肢体は、いつも以上にか細く見えた。
「ごめんね、いつも苦労かけて」と、右条にそっくりの男にぽつりと詫びられて、彼女は首を横に振った。
「構いません。これが私の選んだ道。何も嘆いていません」
声が、変わった。
皮膚や血管が蠢いて、髪が、ざわめいた。
「でも、もしも昔に貴方と出会っていたなら、違う道があったかもしれないわ、佐藤君」
中村さんはやっぱり目を合わせてくれなかった。
バリバリと、衣服の裂ける音がした。
弓なりに反った体が一回りも、いや、何倍も大きくなって、白い肌が漆黒の毛並みにみるみる覆われていく。
手摺りを握っていた手は強靭に膨れ上がって、足共々、コンクリートに這い蹲った。
尖った耳が静謐たる空に向かってピンと立ち上がる。
瞳孔をなくした瞳は金色一色に染められて、何物をも切り裂く裂肉歯の上を荒い呼吸が行き過ぎた。
「グルルルルル……」
フサフサとした尾が、ぴしゃりと、鉄の手摺りを打つ。
人間の輪郭は数秒で消え失せて強大な獣の姿をした怪物がそこに出現した。
それはどんな猛獣をも軽く凌ぐ、尋常でない大きさに発達した狼の如き巨獣であった。
「あっ……」
コンクリートを蹴って黒い獣は男の前に降り立った。
右条が一歩近寄ろうとすると途端に鼻頭に皺を寄せて威嚇する。
腹の底にズシンと響く唸り声だった。
「終わらせない」
硬そうな毛の上に悠々と跨った男は、毅然と睨み据える右条を見下ろしてフフンと笑った。
「絶対にまた追い着いてやる、左条 」
「兄さんのお好きなように」
風を切る音が鼓膜を震わせた。
黒い獣は助走もなしに頑丈な手摺りを伸びやかに飛び越えてみせた。
美しい悪夢に侵った心地でいた僕は校舎の裏手を見渡せる屋上の縁へ急いで駆け寄った。
漆黒の塊は鬱蒼と密生する木々の中へ、体勢を崩さずに落ちていった。
「ヴァルコラク……月に食らいついて、月食を起こすなんて言われてる怪物に似せた使い魔だ……」
右条の説明はあまりピンとこなくて、僕は、草木に隠れて見えなくなるまで彼等の姿を見送った。
初めて体験する絵空事のような出来事に瞼の奥がじんわり温かくなってくる。
切ない温かさを、自分の心にいつまでも消えない思い出として、刻みつけたかった。
……サヨナラ、中村さん……。
「うううう」
背後から聞こえてきた苦痛の呻き声に、うっとりしていた気分は一瞬で色褪せて、僕は何事かと振り返った。
ともだちにシェアしよう!