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フライトナイト-14
「お客さん、着きましたよ」
そこはタクシーの中だった。
後部シートと窓枠の狭間に背中を預け、うつらうつらしていた僕はパチリと瞬きした。
「あれ、右条さんは……」
「はぁ?」
運転手が怪訝そうに聞き返してくる。
僕はあたふたと取り繕って、手にした覚えのない数札の一万円札を渡し、お釣りを受け取って外へ降り立った。
商店街の片隅に建つ見慣れたボロアパートが随分と眩しい朝陽に照らされていた。
「本当に夢だったのかも」
その後、自分の部屋に帰った僕はバタンキュー。
深い睡眠から目覚めたのは昼下がり、大学に行くのも今更な気がして、合計四つの講義をさぼる事にした。
まともな睡眠時間を得、冷静な思考が育めるようになった僕は結論を出す。
あれは断じて夢じゃない。
右条・左条という兄弟も、ヴァルコラクという怪物に似た使い魔も、今現在この世のどこかにちゃんと実在している。
そしてあの小学校はひどい損害を被って、今日一日大騒ぎしているに違いないのだ。
だけど、どうしてだか。
一部の記憶が僕の頭から抜け落ちている。
あの時、屋上で。
振り返った僕は何を見たんだっけ……?
「うわっ」
畳の上に寝転がっていた僕は突然のチャイムにびっくりして起き上がった。
考え事に集中していてわからなかったが、余程の時間が過ぎていたらしい。
開かれた窓から覗く町並みは夕陽を受け止めてセピア色に染まっていた。
「すみませーん、ご不在ですかね?」
ドアを荒々しくノックされる。
セールスか宗教の勧誘だろうと予想はついたが、居留守を決め込むのも後味が悪くて、渋々腰を上げた。
「今、開けます……」
ロックを外そうとして、僕は、左手の中指の先に小さな傷跡があるのを見つける。
『ううう、右条さん!?』
真っ先に思い出したのは自分の情けない悲鳴だった。
『ど、どうしてそんな』
そうだ、彼の目が赤く光っていて、うろたえていたら急に手首を掴まれて。
『ちょっとだけ、頼む』
噛まれた……。
「よぉ」
体に染みついた習慣は、突拍子もなく点滅した危険信号をあっさり無視して、僕にドアを細く開かせた。
右条はそのドアの隙間に黒光りする革靴を滑り込ませて、にんまり笑った。
「ショック状態からは抜け出せたか?」
「ち、ち、血ぃ吸ったでしょ!?」
懸命にドアを閉めようとしたが右条の力には叶わなかった。
でもそんなの当然だろう。
だって、この人も吸血鬼なんだから!
「朝って、特に駄目で。それに血もなくしてただろ? そんな状態で朝陽なんか浴びたら病気になるわけ、俺」
「だ、だからって……!」
ずんずんと土足で部屋の中に上がってきた右条は、狼狽している僕を窓辺に押しつけて、魔力が秘められたあの双眸をひけらかした。
「一緒に来いよ、寅彦」
「えぇぇえ?」
「お前、俺の下僕になったんだからな」
僕が急激に青ざめると、右条は肩に背負っていた一見旅行バッグ風の荷物を投げ捨て、その手で……ほっぺたを撫でてきた。
「あれぐらいの量で使い魔になるかよ」
「ほ、本当?」
「本当。なぁ、お前って独りぼっちなんだろ? 偶然だな、俺も独りぼっちなんだ。だから一緒に来い」
もう片方の手が窓とカーテンを閉めにかかる。
血を吸われるという不安はなかったが、例の気紛れが再発したのではないかと、僕は身を硬くした。
「一人で追うの、寂しいんだって」
案の定、キスしてこようと顔を近づけてくる。
何としてでも阻止したい僕は新品と思しき上等なスーツに爪を立てた。
「わ、悪ふざけばっかり……もうやだ!」
「違うよ」
じたばた抗う僕の腰に手を回し、抱き寄せると、右条は耳元でこう囁いた。
「寅彦ってカッコイイよ」
「……」
「何十年のブランクがあったこの俺を本気にさせたんだから、な」
反論する前に口を素早く塞がれて、前回のキスよりさらにグレードアップした内容に、僕は……抵抗の意思をすっかり奪われてしまった。
「あの時に我慢した続き……」と、右条は、もっとトンデモナイ行為に及んできたわけで……。
僕はめくるめく未知の感覚に朦朧となりながらも考えた。
祖父がくれたこの名前に恥じないためにも荒波に揉まれるべきなのかもしれない。
自分を変えるため吸血鬼のお供をするなんて変な話だけれど。
でも。
この人に触れられていると世界がバラ色に染まって見えるような。
今なんか特に。
「ずっと道連れにしてやる、寅彦」
物騒なプロポーズじみた言葉を聞いた瞬間、僕の世界は、血の色をした大輪のバラに確かに包まれたのだった。
end
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