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うしろのしょうめんは貴方-2
緑深い森林は週末の雨に洗われて今は西日に燦々と煌めいていた。
どこからともなく鳥の声が聞こえてくる。
風もないのにひらひらと葉が舞い降りてくる。
お母さんはここが嫌いみたいだ。
ううん、ここだけじゃない、自分の故郷が苦手みたいだ。
高校は県外に進学して寮生活しなさい、とか言ってたけど。
もっとここで暮らしてみたい。
もっと知りたい、もっと感じたい。
この原色の世界。
彼らのことを。
そうして愁市は我知らず尾鳴山の裏側へ足を踏み入れていた。
ほとんどの人間が知らない場所だ。
学校の先生も、役場の人も、母親も、祖父母も。
清らかなる緑に閉ざされた異界。
尾鳴山の主に許されたものしか訪れることができない禁域。
「あ」
愁市を異界へ招いた彼らが出迎えにやってきた。
犬鬼だ。
雨滴を弾くもこもこした毛並みをふわふわ靡かせ、躍るような足取りで落ち葉を踏み鳴らして駆けてくると、立ち止まった少年の周りをぐるりと一周。
主に擦り寄ってくるのは白い方だ。
黒い方はちょっと距離をおいて澄んだ眼差しで異界に招いた客人をじっと見つめている。
以前はマンション暮らしで動物に免疫はなかったはずの愁市だが。
自分を暖めてくれた犬鬼には何故だかすっかり心を許して、しゃがみこむと、甘えてくる白い方を両手でごしごし撫でた。
「彼は真白 っていうんだよ」
気が付けば黒い方の後ろに貴雄が立っていた。
「貴雄おじさん」
「こっちの彼は御影 」
白いシャツを腕捲りして黒いズボンを履いた貴雄は、真白に顔をべろべろされている似たような制服姿の愁市に笑いかけた。
愁市は土曜日の出来事を思い出す。
転落した男子生徒を探して安全ルートでやってきた大人達の気配を察すると、御影と真白はその場から走り去っていった。
貴雄がいても犬鬼はその場から去ろうとしない。
時に貴雄を見上げては視線を通わせていて、その存在を受け入れているようだった。
特に黒い御影の方は貴雄にぴたりと身を寄せて片時も離れようとしなかった。
「くすぐったい」
懐っこい真白に顔中べろべろされて笑う愁市のそばに佇んで貴雄は言う。
「真白は僕相手だと遊び足りないみたいだね」
大柄な犬鬼にとうとう押し倒されて首筋に冷たい鼻先を押し当てられ、身を捩らせて「くすぐったい!」と笑いながら何度も悲鳴を上げる愁市。
こんなに笑ったの、久し振りかも。
真白すごくかわいい。
犬鬼って、なんか怖そうなネーミングだけど、ただの子犬みたい、でっかいけど。
「御影のことも撫でてあげて、愁市」
鞄を放り投げて草むらに仰向けになっていた愁市は真白に邪魔されつつも身を起こした。
手を伸ばせば。
するりと向こうから身を寄せて掌に顔を擦りつけてきた御影。
絆創膏が張られた手の甲を、ぺろり、舐められた。
「あ。御影は優しいコなんだね。ありがとう」
愁市が御影の大きな三角耳を撫でれば真白が「こっちもこっちも」と言いたげにもふもふ擦り寄ってくる。
まるで数年ぶりに再会した気のおけない幼馴染みを相手にするように戯れて、異界と現の狭間まで犬鬼に送ってもらい、尾鳴山を下りて家に帰れば。
玄関で待ち構えていた母親に愁市はめちゃくちゃ怒られた。
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