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第10話

久弥は満の入った教室の前まで来て、呼吸を整え、そっと中へ入る。 「楠木、逃げないでくれ。少しだけ、話しがしたい」 まだ軽く息の弾んでいる久弥、それは満も同じで、息遣いのする方へ久弥は足を進める。 満は教室の隅へと身を隠していた。 久弥の姿が瞳に映ると、満は追いつめられた猫のように立って身体を引く。 「っ、近づかないでください。あのように、なりたいのですか」 三野のように、という意味。 本当は忘れてしまいたい過去だけど、満は自分で思い出させるように久弥に言う。 怯えるような瞳で久弥を見る。 「恐がらないで」 久弥は、スッと片手で満の髪に触れ、静かに隣の壁に寄り掛かる。 そして耳元で囁くように謝り、そっと満の肩を抱く。 「ごめん」 「っ!?」 久弥の行動の意味が掴めないが、それでも満は抵抗できないでいる。 「……」 久弥は近距離で俯く満を見つめて一言も言葉を出せないでいた。 そして複雑な表情をして満を映していた瞳を宙へ泳がせる。 話さなくても分かってしまったから。 久弥の心は、ひとつの確信へと導かれる。 自分は満のことを恋愛対象として見てしまっているのだ。 触れているだけで、鼓動が早くなる、避けられると堪らなくつらくなる。 あの日、満が三野に暴行を加えていた事よりも、満が三野から受けていた行為に対して、心情が乱れたのを、今でも忘れられない。 でも……。 久弥はそんな自分の感情をどうすればいいのか分からなくて、複雑な表情をしてしまう。    久弥は軽く溜め息をついてみる。 (満は今、自分のことをどんなふうに思っているのだろう。きっと、不審な奴だと思っているだろう、追いかけたあげく何も話さない俺) しかし、男子生徒の満に、何をどう伝えたらいいのか分からない、伝えられない理由もある。 (俺には結婚まで約束された相手がいて、自分の意志がどうであれ、親の敷いたレールの上を歩かなくてはならないから) 病院の跡取りで、一人息子の久弥には、恋愛の自由などなかったのだ。 「……」 満は久弥の気持ちが気になり、そっと相手の顔を覗いてみる。 久弥は眉間にシワを寄せ、宙を見つめている。 そんな表情の久弥を見るのは初めてで不安が募り、この場から逃げたい気持ちでいっぱいになる。 「くすのき」 囁く久弥の声に。 満は、ぴくりと反応する。 久弥の表情は暗いままで何を言われるのか、さらに不安になる。 久弥は、決心したように満に話しかける。 「くすのき、俺は、もう図書館には、行けない。これ以上、君と関わる事を、やめにしたい」 「……」 紡がれた言葉は、満にはとてもつらく響いた。胸が、奥深くへ、ぎゅぅっと締めつけられる。 嫌われたんだな……と、心の中で漠然と思う。 「ごめん」 俯いたまま、言葉を発しない満を見て、久弥は俯き肩を抱くのをやめる。 (俺の想いは、このまま封印する) 自分が、どんな目で満のことを見ているのか、悪く言えば、三野と同じ想いを抱いているのだから。 そんな事を、満に知られる方が恐い久弥、出した答えは、満との出会いをなかったものにすること。 「さようなら」 俺の好きになった人――。 久弥は、そっと言葉にして満の元を離れる。 自分の意志のなさ、勇気のなさがとてつもなく悲しく胸に突き刺さり、それすら、心の奥へと閉じ込めてしまう久弥。 そのまま振り返らず、教室を後にする。 残された満は、薄暗い教室の中で、胸は苦しいのに、表情にはあらわれない。 しかし、その、無表情の満の頬には、瞬きとともに一筋の熱い雫が流れ落ちる。 「……なみだ」 片手で拭い、ぽつりと声を出す。 自分の記憶に残る中で涙を流したという覚えがなかったのだ。 感情を表に出さない、感情を持たないよう生きてきた。 でも、その生き方が久弥を遠ざけてしまった。 人間らしくない、人形のような自分が。 満はなんともいえない自己嫌悪に陥る。 そんな自分を変える手段さえ分からない。 満の願いはただひとつ、日種久弥に笑いかけてもらいたい、隣で話をしてほしい。 ただ、それだけなのに。 もう、それさえ、叶えられない。 満は、久弥の存在自体、振り切るように頭を強く振る。 (こんなふうに突き放すくらいなら、はじめから優しくしないで欲しい) 辛い気持ちをすべて怒りに変えようと、満は強く唇を噛む。

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