10 / 72
第10話
久弥は満の入った教室の前まで来て、呼吸を整え、そっと中へ入る。
「楠木、逃げないでくれ。少しだけ、話しがしたい」
まだ軽く息の弾んでいる久弥、それは満も同じで、息遣いのする方へ久弥は足を進める。
満は教室の隅へと身を隠していた。
久弥の姿が瞳に映ると、満は追いつめられた猫のように立って身体を引く。
「っ、近づかないでください。あのように、なりたいのですか」
三野のように、という意味。
本当は忘れてしまいたい過去だけど、満は自分で思い出させるように久弥に言う。
怯えるような瞳で久弥を見る。
「恐がらないで」
久弥は、スッと片手で満の髪に触れ、静かに隣の壁に寄り掛かる。
そして耳元で囁くように謝り、そっと満の肩を抱く。
「ごめん」
「っ!?」
久弥の行動の意味が掴めないが、それでも満は抵抗できないでいる。
「……」
久弥は近距離で俯く満を見つめて一言も言葉を出せないでいた。
そして複雑な表情をして満を映していた瞳を宙へ泳がせる。
話さなくても分かってしまったから。
久弥の心は、ひとつの確信へと導かれる。
自分は満のことを恋愛対象として見てしまっているのだ。
触れているだけで、鼓動が早くなる、避けられると堪らなくつらくなる。
あの日、満が三野に暴行を加えていた事よりも、満が三野から受けていた行為に対して、心情が乱れたのを、今でも忘れられない。
でも……。
久弥はそんな自分の感情をどうすればいいのか分からなくて、複雑な表情をしてしまう。
久弥は軽く溜め息をついてみる。
(満は今、自分のことをどんなふうに思っているのだろう。きっと、不審な奴だと思っているだろう、追いかけたあげく何も話さない俺)
しかし、男子生徒の満に、何をどう伝えたらいいのか分からない、伝えられない理由もある。
(俺には結婚まで約束された相手がいて、自分の意志がどうであれ、親の敷いたレールの上を歩かなくてはならないから)
病院の跡取りで、一人息子の久弥には、恋愛の自由などなかったのだ。
「……」
満は久弥の気持ちが気になり、そっと相手の顔を覗いてみる。
久弥は眉間にシワを寄せ、宙を見つめている。
そんな表情の久弥を見るのは初めてで不安が募り、この場から逃げたい気持ちでいっぱいになる。
「くすのき」
囁く久弥の声に。
満は、ぴくりと反応する。
久弥の表情は暗いままで何を言われるのか、さらに不安になる。
久弥は、決心したように満に話しかける。
「くすのき、俺は、もう図書館には、行けない。これ以上、君と関わる事を、やめにしたい」
「……」
紡がれた言葉は、満にはとてもつらく響いた。胸が、奥深くへ、ぎゅぅっと締めつけられる。
嫌われたんだな……と、心の中で漠然と思う。
「ごめん」
俯いたまま、言葉を発しない満を見て、久弥は俯き肩を抱くのをやめる。
(俺の想いは、このまま封印する)
自分が、どんな目で満のことを見ているのか、悪く言えば、三野と同じ想いを抱いているのだから。
そんな事を、満に知られる方が恐い久弥、出した答えは、満との出会いをなかったものにすること。
「さようなら」
俺の好きになった人――。
久弥は、そっと言葉にして満の元を離れる。
自分の意志のなさ、勇気のなさがとてつもなく悲しく胸に突き刺さり、それすら、心の奥へと閉じ込めてしまう久弥。
そのまま振り返らず、教室を後にする。
残された満は、薄暗い教室の中で、胸は苦しいのに、表情にはあらわれない。
しかし、その、無表情の満の頬には、瞬きとともに一筋の熱い雫が流れ落ちる。
「……なみだ」
片手で拭い、ぽつりと声を出す。
自分の記憶に残る中で涙を流したという覚えがなかったのだ。
感情を表に出さない、感情を持たないよう生きてきた。
でも、その生き方が久弥を遠ざけてしまった。
人間らしくない、人形のような自分が。
満はなんともいえない自己嫌悪に陥る。
そんな自分を変える手段さえ分からない。
満の願いはただひとつ、日種久弥に笑いかけてもらいたい、隣で話をしてほしい。
ただ、それだけなのに。
もう、それさえ、叶えられない。
満は、久弥の存在自体、振り切るように頭を強く振る。
(こんなふうに突き放すくらいなら、はじめから優しくしないで欲しい)
辛い気持ちをすべて怒りに変えようと、満は強く唇を噛む。
ともだちにシェアしよう!