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第67話

それでも、今の満の耳に、心にまでは届かない。 そう、感じるだけの心が足りないのだ。 「兄さん……」 弟の健次は、意志を持たない兄を切ない思いで見守る。 卒業式――。 元生徒会長の久弥。 卒業生代表者として舞台に立つはずだった。 けれど、当然ながら姿を見せることはなかった。 ――亡くした命――。 先生が久弥の事柄に触れた時、会場からは、すすり泣く声があちこちから聞こえる。 彼が全校生徒に慕われていた証。 しかし、満には、すべてがリアリティに欠けた、空想のような感覚に思い、無表情で終始捉らえていた。 式が終わった後、健次も片付けなどを手伝う関係で残らなくてはならない為、皆が帰ってしまった三年の教室に満を待たせていた。 ぽつんと、独り身動きひとつせず待つ満。 そこへ――。 「このッ人殺しッ!」 不意に投げ掛けられた恐ろしい言葉。 「……」 満はその声にぴくりと反応する。 声の主は、ヅカヅカと満の前まで来て――。 ダン! 満の机に両手を打ち付ける。 「……っ!?」 その姿を捉らえて満は、びくッと身体を縮める。 「あんたがッ……あんたが、ヒサヤを殺したんだ」 怒りに震える彼女の名は、星波祥子。 久弥の許婚。 「……ころす、ヒサヤを?」 ぽつりと声をだす満。 祥子の悲痛な叫びは、何も受け入れなかった満の心に、割り込むように入り込んでくる。 「…のこのこと、よくこの場に来れたわねッ!ヒサヤがいないのに…ッ」 「いない……」 そう、ヒサヤは何処を探してもいない。 「……ヒサヤは、亡くなったのに……なんで、あなただけッ」 「……」 「人殺しッ…私の大切なひとを返してよッ!あなたさえいなかったら、ヒサヤは死ぬことなんてなかったのに」 祥子の怒鳴り声に恐怖を感じ、強く首を振ってしまう満。 「何よ、ヒサヤはあなたが殺したのよッ!あなたの手は真っ赤に染まってるんだからッ!」 「ッ!……はっ」 満は祥子の吐き捨てたその言葉にひどく動揺する。 自分の両手を凝視し、震えている。 あの日のことが、思い出せなかった……あの日のことが、フラッシュバックされるように目の前をちらつく。 ――血だらけなヒサヤが。 苦しそうなヒサヤが。 指に絡まるような、生温かい血液が――。 そしてそれは、冷たくこびりついて取れなくなってしまう。 赤黒い血が――。 「ッあァァっ!ぅわぁァーッ!」 満は突然頭を抱え椅子から立ち上がり、すごい勢いで祥子のもとから逃れ、教室の端にうずくまる。 「はァ……は、はっ……」 震えながら肩で息をして呼吸数を上げる。 「逃げないでよ、逃がさないから」 冷徹な声で、ゆっくりと満に近づきながら言い放つ祥子。 「殺したいほどあなたが憎い、ヒサヤを殺しておいて自分だけ生き続けるなんて許せない!見ていたくないのよ」 祥子はそう低く呟いて、隠し持っていたサバイバルナイフをゆっくりと満へ向ける。 「殺したいけど、犯罪者になりたくない……だから、あなたは、自分で断ちなさいよ。いつまでも生き続けるその醜い命を、それがヒサヤの命を奪って、あなたが出来る唯一の償いなんだから」 かなりの横暴な言い振舞いだけれど、その祥子の瞳は真剣そのもので…… 本当にそうしなければならないと錯覚させられるくらいの迫力があった。 残酷な言葉と共に、満の目の前の床へナイフを投げ落とす。 「それを手に取りなさい」 震えている満にそう低く促す。 満はただ震えながらナイフを凝視していたが、祥子に再び促され。 すっと床に転がる刃物を拾い上げる。 それを見て微妙に笑みを浮かべる祥子。 その時――。 ガラッ。と教室の戸が開く。 「……に、兄さん!?」 片づけを終え、静かに教室に入って来た健次が目にした光景。 ナイフの刃を自分の胸に向け、瞳を閉じて涙を流している満の姿。 「ッ兄さん、何してるの! あ、あなたは…日種先輩のッ?」 健次はすぐ駆け寄り、満の手から刃物を払いのけ、満を庇うように祥子との間に入る。 「そうよ……」 ふん、と邪魔者をみるように答える祥子。 「に、兄さんに何をしていたんですかっ」 怯えたように息を切らす兄を見て強く問いかける健次。 「……別に何でもないわ、お兄さんは死にたいみたいだから手伝ってさしあげたのよ」 ふふ、と笑うように言う祥子。 「……なんで、あなたはそこまで」 兄を苦しめるのか……。 その人間的でない心の内に問う。 「目障りだったのよ、ずっと前から……ヒサヤが殺される前に殺しておけば良かったんだわ」 凍てついた瞳の祥子。 「なんで……そんなことを、日種先輩は確かに、兄さんを救って亡くなられた。けれど、それは兄さんが先輩を『殺した』なんてことにはならない筈でしょう?」 「……」 「……もっと先輩のそういうところを見てあげてください。それは……死んでしまった悲しみは変えようがないけれど、でも、日種先輩は、身をていして人、ひとりを救った素晴らしい方……違うんですか?」 声を震わせ、途中からポロポロと涙を見せて訴える健次。 その涙に感化されたのか、佇んでいた祥子に変化が……。 凍てついた瞳に……一筋の涙。 俯いて健次の声を聞く。 「……きっと、こんなこと、日種先輩は望んでいない筈です」 健次は思う気持ちをすべて伝える。 この人も苦しんでいるのだから。 「……兄さんは、もう充分苦しんでる。これ以上、兄さんを苦しめるのはやめてください。……あなただって苦しい筈だから」 痛いような優しい言葉に、祥子は……。 「……ふ、うぅ…ッ」 ふっと顔を両手で覆い、泣き崩れる祥子。 「……あの」 不意に泣き出してしまった祥子に困惑して、健次が声をかけると。 「っ…ごめ…なさい」 泣き声の間で微かに謝って、祥子は満と健次の前から逃げるように走り去ってしまう。 しばし、余韻を見送ったあと、小刻みに震える満にそっと声をかける。 「兄さん、大丈夫? ……帰ろうか」 「……」 返ってくる言葉はない。 けれど、健次は満を支えて自宅へと連れ帰った。

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