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流れゆく日々 17

「暫く静岡へ帰るよ」  静流がそう言い出した。 タイミングも重なって、紫苑は心臓が飛び出そうになった。 別に夫婦ゲンカに良くある台詞のそれでは無く、一本の電話が原因だった。  静流の父が、心臓発作で急死したというのだ。 母親から明らかな動揺の電話を受け、すぐに仕度を始めた。 その時の電話で母はこんな事を言った。 「…もうあなたたちのことに関しては何も言わないから。最後にお父さんにお別れしてあげて…蒼城くんも一緒に」  だが今回は一人で帰ると決めた。 冷静になるいい機会だと思ったからだ。 「しず、帰ってくるよな?絶対戻ってきてくれるよな?」 不安を隠しきれない紫苑とは裏腹に、何となく静流の心は渇いていた。 「行ってくるから」 (父さん…本当に死んじゃったんだ) 「速水家告別式」と書かれた看板を見て、実感する。  二度とまたぐ事は出来ないと思っていた我が家の敷居をまたぐと、懐かしい匂いがした。 「しずちゃん!」 今にも泣き出しそうな母親が駆け寄る。 少し小さくなった気がする。傍らには樹もいる。 「―――只今帰りました」 「父さん…」 遺影を前に手を合わせ、心の中で話しかけた。  父さんはまだ僕らの、僕のことを許してないんだろうね  親の言う事に耳も貸さないで死に目にもあえなくて僕は…  僕はなんて親不孝な息子だったんだろう―――  その後、すっかり心身ともに弱ってしまった母やまだ頼りない樹に代わって、静流は一人で来客の応対、帰る親類の見送り、葬儀社との今後の段取り、果ては酒の席の酌まで全てこなした。  一段落ついたのは通夜客の途絶えた午前0時ごろ。静流がネクタイを緩め、眼鏡を外して足を崩していると、 「しずちゃん…」 ビールを片手におずおずと母がやってくる。 「帰ってきてくれて助かったわ…私と樹だけだったらどうなっていた事か」 隣の部屋で大口を開けて寝こけている樹にちらと目をやる。 「それでね」 母が言いにくそうに切り出す。 「できれば…ずっとここにいて欲しいのよ。こっちから追い出すようなマネしておいて勝手だけど…父さんがいなくなってもうこれからどうしたらいいのか―――」  理由はともかく、帰ってこられた事は嬉しかった。 しかし、ここに居つくつもりは毛頭無かった。 静流には静流の『現在』があるのだ。帰りを待つ者も居る。 「母さんしっかりして。初七日が過ぎるまではこっちにいますから」 苦笑いする静流を絶望的な目で母は見つめた。 「ていうことはやっぱりこっちへは帰ってくれないのね…」 「すぐに樹が頼もしくなりますよ」  そして飛ぶように七日間が過ぎ、静流が帰る日がやってきた。 樹も母も未練たっぷりに、恨めしそうな目で静流を見送る。 「やっぱりあの家に帰るんだ」 樹の責めるような、すがるような目。 「なにかあったらいつでも電話下さい。出来る事なら何でもします…それと」 一息ついて、大きく息を吸いこんだ静流は、少しはにかんで母に言った。 「僕らのこと、認めてくれてありがとう」

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