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偽紳士 其の一

**  世良は、この鬼柳町のある唯一の宿屋『柳屋』の跡取り息子である。  蝶よ花よと育てられた覚えはないが、父親は随分と女遊びが激しい上に甘い人間であり、母親は他人にも自分にも厳しい人間ではあるが世良にだけは甘かった。  故に、のらりくらりと風来坊のような生活をしているにも関わらず、表立って文句を言われた事は一度もない。  世良は今日もまた、暇つぶしの昼寝もそこそこに、散歩がてら町へと繰り出している。 「あっ。世良やん。丁度ええとこに!」  世良が彼――悠月(ゆづき)と出会ったのは、町一番の大通りでの事だった。 「ちょっと手伝ってやー。荷物が多すぎて堪らんわぁ」  正面からやって来た悠月は、本人の言うように大量の荷物を抱えている。どうせ宿屋で出す料理の材料だろう。悠月は柳屋で働く男衆の一人だ。  遠方から旅人としてやって来た悠月。柳屋に泊まった際、たまたま出会った世良と意気投合して住み込みで働く事となった。彼の就職理由としては、世良が当主になった時に楽が出来そうだから、らしいが、今でも世良以外の人間には至極厳しい母親の元で真面目に働いているのだから大したものだ。 「ったく、しょうがねぇな」 「さっすが世良っ! 頼りになるわぁ」  悠月から荷物を半分預かり柳屋への帰路を辿る。 「そういや昨日、火消の助っ人で現場に行ったんやって?」 「ああ、まあ。呼ばれちまったからな」 「他の現場に行ってはった頭の代わりを務めたらしいやん。朝から女中が大騒ぎしよったで。さすが世良様やわぁーって」 「そりゃ光栄なこった」 「光栄やとか思てもない癖にー。この色男っ!」 「ちょ、おい。蹴んな、馬鹿っ」  二人で足を蹴りながら進んでいると、何やら此方に向けられるいくつもの視線に気づく。  視線の主は、密かに世良へ想いを寄せる町娘だろう。町娘達からすれば、町一番の名家とも言える柳屋の息子は、おいそれと話しかけられない高嶺の花らしい。とは言え、此方から声を掛ければ、二つ返事で夜遊びに応じてくれるのだから何の問題もない。 「当主様に似て男前やしなぁ、世良は。服装やって粋やし。……あーっ! ほんま、人生って不公平やわぁ!」  わめく悠月を横目に、次に持て余した際に声を掛ける女の目星を付けながら歩く。素人を相手にする時は気を付けろ、と言ったのは、女遊びを説く父親だったか。あまり気安くしすぎると、勘違いをして自分を『特別』だと思う馬鹿女が少なくないからだろう。その迷惑さを重々理解しているため、声を掛ける女選びも些か慎重になる。 「っと、やっと帰って来たわぁ」  気の抜けた悠月の声と共に裏口へと回る。  そう言えば昨日、ここであの男と出会ったのだったか。  昨晩の事を思い返しながら、男との記憶は、既に夢の中の出来事だったと頭の中で処理されつつある事に気付く。それはきっと、信じ難い程に美しい彼の容姿の所為でもあるのだろう。あんなにも美しく艶めかしい男がこの世の中に居る訳が―― 「おかえりなさい。悠月。世良も一緒なのね」  裏口に到着するや否や、楽しそうに誰かと話し込んでいる母親と出くわした。何度も言うようだが、母親は他人にも厳しい。故に、こんなにもにこやかな表情を見せる相手など、宿泊客くらいしかいないと言うのに。 「世良。貴方も自己紹介なさい」  母親が掌で示した客人を見た瞬間。  まるで歯車の外れたからくり人形のように、一歩も動けなくなってしまった。 「初めまして。世良君、で良いのかな? 俺は汐(うしお)。近くに越して来たから、ご挨拶に伺ったんだ」  汐と名乗った彼は、紛れもなく昨夜の男。  頭の中で昨日の記憶が次々に回想され、現状把握が後回しになった。 「これから宜しくね。世良君」  呼吸を失っていた体が活発に動き出す。  ばくばくと音を立てる心臓。  頭は相変わらず上手く動かず、初めまして、と告げられる意味も理解出来ないままだ。正直、目の前の事態にこんなにも焦りを覚える事は初めてで、世良はただ、目の前の彼に会釈をするだけで精一杯だった。 「汐さんは、まるで異国の紳士のようね」 「異国の紳士、ですか?」 「ええ。この辺りにもたまに異国の方がいらっしゃるの。優しく温和な方々で、この町の男衆とは比べ物にならない程に素敵だと、女中達がよく騒いでてね」 「それは嬉しいですね」  ふふ、と口元に指先を当ててほほ笑む母親。  対する汐は、本当に紳士と呼ぶべき人格に優れた人間のように見えた。  穏やかな笑みと優しげな眼差し。ゆったりとした丁寧な口調は、男気の溢れる町男とはまるで異なる。母親がこんなにも楽しそうに会話をしているのは、その異質な魅力を受けた所為かもしれない。 「じゃあ、俺はこれで。お邪魔しました」 「分からない事があれば何でも聞いて頂戴」 「有難うございます」  汐は深く頭を下げて身を翻して去って行く。  昨晩の事を問いただそうと振り返った世良だが、彼へ掛けようとした声を喉奥へと抑えつけた。この時になって、漸く彼の告げた「初めまして」の意味を理解する事が出来たのだ。一夜限りの疑似恋愛。どれほど濃厚に肌を重ね合ったとて、翌朝になれば赤の他人だなんてよくある話。  むしろ、それは今まで世良が相手に望んで来た事だった。

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