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偽紳士 其の三

 まるで密林である。  庭の現状を表すには、その一言で事足りた。  古民家を囲む垣根は雑草の蔦に巻きつかれ、密林と同化している。  右も左も分からず、永遠と背の高い草木に覆われた獣道が続いているように思えた。  がさがさと音を立て、預けられた風呂敷を汚さぬようにだけ気を付けなら進む。視線を上げれば古民家の屋根は見えているものの、歩いても歩いてもたどり着けない。ちゃんと母親の言いつけを守って表から来れば良かったと後悔したのはこの時だ。 「あーっ! クッソ!」  悪態をつくべく口を開いた世良だが、先に聞こえて来た誰かの声に、現状への文句は喉の奥へと引っ込んだ。聞こえ続ける至極不機嫌な声を頼りに、世良は草木を掻き分け前へと進む。  そして、視界が開けた先。  やっとの思いで辿り着いた古民家は、この庭同様、風化して朽ち、今にも倒れそうなそれだった。建物へと続く庭には膝丈程の雑草が生い茂っている。緑を越えた先にある縁側と、庭を望む一室。肌寒くなってきた秋口だと言うのに、襖は開け放たれている。そのお陰で、中に居る汐がしっかりと確認できた。  汐宅を目前にした世良が思わず二の足を踏んでしまったのは、その今にも壊れそうな民家に近づくことに戸惑った訳ではない。  ここから見える畳の一室。三脚台に平たい木の板を置いた何かに、汐は筆を向けていた。板に張り付けられているのは一枚の紙だろうか。そこに筆先を走らせる汐は、世良の知っている彼とは似ても似つかない雰囲気を放っている。まるで別人なのだ。  不機嫌を露にした眉間の皺。とても綺麗だと記憶している瞳は、まるで死んだ魚のようにその一点を見つめている。ぶつぶつと聞こえてくる低い声色がお経のようにも聞こえてなんだか気味が悪い。 「あー、マジなんなの。また描き損じたし。てか、液タブどころか鉛筆も消しゴムもない世界とかマジ勘弁なんだけど。デジタル絵師に死ねって言ってんの。死ねってことだよね。いや、お前が死ねよ、ほんと。ついでに下書きとかしなくてもヨユーとか言ってるやつらも死ね。こっちはまだ何も出来てねぇっつーのっ!」  彼は何かを手にとり、勢いのままにそれをぶん投げた。彼の手から離れた黒い固形物が此方へと飛んできた事に気が付いたのは、それが世良の額に当たって声を上げた後の事である。 「痛ぇ……」  足元に転がるのは墨。  それを拾い、視線を上げた世良の目に映ったのは、虚ろな視線で此方を見遣る汐だった。 「……なにしてんの、柳屋の風来坊」  何の感情も見えない彼の表情に対し、世良は言葉を失っていた。  わななく唇は空気だけを通し、近づいて来る彼に背を向ける事も出来ない。 「勝手に人の家入ってくんじゃねーよ。不法侵入で訴えんぞ、クソ餓鬼が」 「い、いやっ……そのっ、悪りぃ」  どうにか掠れた声で謝罪を告げるも、じっとりと此方を見つめる汐から逃げ出すための一歩は踏み出せなかった。 「で、何の用? 忙しいんだけど、俺」 「……あ、これ。母ちゃんが持ってけって」  差し出した風呂敷。中身を問われるも、世良もこれが何なのかは聞かされてはいない。汐は訝し気に手渡した風呂敷を眺めている。世良はただ、そんな見た事もない表情ばかりを見せる彼をぼんやりと見つめていた。 「ふーん。入れば、せっかくだし」 「良いんっすか? 今、忙しいって」 「良いから。入れって言ってんの」  強めの口調に促されるまま、世良は縁側から彼の家へと足を踏み入れる。歩く度に床はぎいぎいと嫌な音を立て、室内の畳は酷くささくれていた。さすがに埃などは取り除かれているが、桃源郷のような宿屋で生まれ育った世良からすれば、こんな場所に人が住めるのかと疑問に思う。  けれど、彼はこの町に越して来たあの日からここに住んでいるのだ。荷物も片付けられてあるし、多少家が朽ちていようとも、生活に支障はないのだろう。 「飯か。美味そうじゃん」  おもむろに文机の上で風呂敷の中身を広げた汐。中から出て来たのは四角い弁当箱だった。どうやら宿泊客に出した料理の残り物らしい。そう言えば、この里芋の煮物は今朝の朝食に出ていたな、と指先でそれを摘まんで口に運ぶ汐を見ながら思う。 「ん、美味っ。良いね、なんか田舎の味って感じで」 「うちの料理は美味いって評判っすから。こうやって弁当にして配る事もあって」 「へぇ」  感心したように声を上げて、汐は次々に料理を口に運んでいた。手づかみで。ここに母親が居たならば、行儀が悪いと手を叩かれていることだろう。けれど、世良はそんな野暮な事をするつもりはない。 「お前も食う? ほら、口開けなよ」  ぐい、と唇に抑えつけられた里芋。  急な汐の言動に、世良は思わず一点に目を寄せて瞬かせた。 「早く」 「……っす」  口を開くや否や、中に押し込まれた里芋と彼の指先。唇に触れた細いそれに戸惑うも、彼は何事も無かったかのように自分の指先を舐めとりながら、次に食べる料理を見定めている。  そんな彼の横顔は、やはり町で見かけるそれとはかけ離れていた。紳士的だと持て囃される温和な笑みも、穏やかな雰囲気も、今の汐からは微塵も感じ取れないのだ。 「なあ、汐さん」 「なに」 「えっと……、」  思わず言葉に詰まる。彼の変貌を正直に尋ねて良いものか。  声を掛けた後だが、上手い聞き方が見つからずにそのまま口を閉じた。

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