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偽紳士 其の五
「……ああ。これが俺の『素』。文句ある?」
世良の言わんとする事を理解したらしい汐は、瞳を細める。睨みつけられている訳ではないが、威圧感に近いそれが世良の顎を引かせた。しかし彼は、世良の反応にさほど興味を持っていないのか、ひらりと返した掌で卵焼きを摘まむ。
「町民に言いふらしたいなら言えば? 良い人やってたら、得する事多いからやってるだけだし。こう言う差し入れとか。結構有難いんだよね。一人暮らしの男としては」
これが彼の本音。
その声色は、大きく頷いて納得を示せる程に真剣なものだった。
「別に、誰にも言う気ねぇっすけど」
「ふーん?」
「他人を陥れて楽しむような趣味は持ち合わせてないんで」
世良がそう言い切るや否や、汐が此方を向いた。
その視線は酷く柔らかく、強いて言うならばあの夜の。
艶めかしい肌を露にした彼と重なる。
「お前、やっぱ良い男だね」
とくん、と心臓が音を立てた。
恥ずかしそうな、嬉しそうな。
どちらとも取れる彼の笑みから目が離せない。
思い出したように最熱した愛おしさ。口付けたいと思った。
世良は、此方の顔を覗き込むように見つめる汐の頬に掌を伸ばしていた。
「汐さん……」
「うん?」
唇が触れ合う。それは、まるであの夜のように。
啄むような口付けを、汐は文句を言うでもなく受け入れてくれた。
このまま抱いてしまおうか。
湧き上がる感情のまま、世良が彼の腰へと腕を伸ばして抱き寄せようとした時だった。
「……あっ!」
突如、何かを思い出したように声を上げる汐。
驚いた世良は、宙で掌を彷徨わせる。
「ヤベー、良い構図思いついた。これだよ、これ。クソ餓鬼のおかげだわ。助かった」
唐突に立ち上がり、世良の頭を乱暴に掻き撫でた汐は、そのまま室内に佇む謎の三脚へと向かって行く。何が何だか分からないままの世良だが、頭を撫でられた事への文句を告げる余裕はあった。
「……餓鬼じゃねぇ」
その声が、機嫌よく筆を滑らせる彼に聞こえたかどうかは定かではない。鼻歌を歌いながら筆を動かす彼。暫くその場で汐を眺めていたが、世良は此方への関心を失ってしまったらしい彼の元へ近づいた。
一体何をしているのだろうか。興味本位で覗き込んだ彼の手元。
その大きな一枚の紙に書かれていたのは、紛れもない――
「……なに、これ」
「何って、ちんこ」
「いや、見りゃ分かりますけど……」
彼が描いていたものは、男同士が性器を起てて乳繰り合う絵だった。全体的に簡素化はされているものの、果てしなく本物に近い。描かれる男達の表情は、今まで見て来た浮世絵とは比べ物にならない程の現実味があり、性行為中特有のねっとりとした熱さえも伝わって来る。
「これ、描いてどうするんっすか?」
「どうって? 売るの」
「売るって、誰が買うんだよ……」
「若い女の子とか」
「は? なんで」
「そりゃ、眺めるためでしょ」
彼の言う事は分かる。絵は眺めるためにあるものだ。
しかしどうして、男色風景の絵などを欲しがるのか。
それが世良には理解が出来なかった。
「珍品収集家って言うんでしたっけ?」
「ちんこだけに?」
「ったく、その綺麗な顔で下品な言葉使わないで下さいよ」
世良は先ほどの仕返しとばかりに、汐の頭を掻き撫でてやる。その一瞬は掌で大人しくしていた頭だったが、すぐに真新しい墨を投げつけられ回避した。どうやら彼は、頭を撫でられる事が嫌いらしい。
あからさまに不機嫌な表情を見せられ、世良は小さく両手を上げる。
「それで、汐さんはなんでこんなの書いてるんっすか?」
「なんでって言われても、これが仕事だからとしか言いようがないんだけど?」
それが仕事だと言い切られてしまっては設問のしようがない。この世界に生きる人間の大半は、生まれた時から既に職業が決まって居たりするものだ。世良のように。
「まあ、俺は好きでやってんだけどね」
「え?」
「もともとバイだから。男相手にセックスはした事ないけどさ。初対面の人間にもネコだと思われるし、痛いの嫌だし」
「えっと……?」
彼は何やら自分の事を話してくれているようなのだが、途中に挟まる見知らぬ言葉に理解を阻まれる。とにかく、痛いから突っ込まれるのは嫌だと言っていると解釈して間違いはないのだろうか。
「ヤるヤらないの前に、俺は描く専門なの。分かる?」
「分かるような、分からないような……」
世良が曖昧な返事をしている間にも、汐はその綺麗な指先で器用に筆を回している。くるくると数度宙に円を描いた筆柄の先端は、とす、と言葉に詰まった世良の胸元をついた。
「ま、赤の他人が簡単に悟れるほど、人の生き様ってのは甘くねーんだよ。クソ餓鬼」
瞳に映る、純粋に悪戯を楽しむ子供のような笑み。
人の事を餓鬼だと言うくせに。
こんなにも無邪気に笑う大人を見たのは初めてだ。
上手く息を吸えない程の鼓動は、目の前の男の所為だろう。
まるで、その筆で胸の奥まで貫かれた気分になり戸惑った。
「が、餓鬼じゃねぇ、っすよ……」
「言ってろ、言ってろ」
口の中に笑みを含んだ彼は、再び反り立つ性器の絵へと筆を這わせる。耳までも赤く上気させた世良の気持ちも知らないで。汐は世良の反応を気にする様子もなく、鼻歌を歌いながら他人の性行為を描き続けていたのだった。
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