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『特別』な人 其の一

**  悠月が慌てた様子で世良の部屋へとやって来たのは、昼食を終えて暫くしてからの事だった。 「世良! 急いで着物見繕ってぇなぁ……!」  作業中に破いてしまったと言う着物は、背中に大きな穴が開いている。 「今日は、宿の受付せなあかんねん。裏方やったらともかく、こんな着物でお客さんの前には出られへんわぁ」  着物を買いに行くために仕事を抜けさせてもらったと言う悠月。  故に時間もないようで、世良の腕を強引に引いて立ち上がらせた。  世良がこうして悠月の着物を選んでやるのはいつもの事だ。悠月自身、決して趣味が悪い訳ではないのだけれど、仕事着選びに関しては、彼の派手好きが裏目に出る。その点、世良は幼い頃から当主の嫡男として様々な会合や宴の場に連れ出されていため、その場に合った適度なお洒落と言うものを弁えていた。 「あー……、これなんかどうだ?」 「こっちの方が恰好ええんちゃう?」 「却下」  生地は出来るだけ軽くて動きやすいもの。悪目立ちする色合いを避けつつ、個性的な柄を選ぶ。誂えて貰う時間はないので、大量生産されている既製品の中から選ぶ事にはなるが、合わせる帯や袴によって粋に見えるものはいくらだってある。 「さすが世良やわぁ。ついでにええ感じの帯も買えたし!」 「ったく、作業する時は着古した着物に着替えろっていつも言ってんだろーが」 「だって、頼まれたら着替えとか忘れてすぐに言ってまうんやもん」  悠月の単純さは、世良の母親からのお墨付きでもある。上に立つ者としては扱いやすくて良いらしいが、友人としては誰かに騙されやしないかと些か心配になる。 「そういや最近、近所の茶屋で旅人のお姉ちゃんが働きらしたらしいで?」  悠月がふと思い出したかのように話出したのは、柳屋へと向かう一本道に差し掛かったあたりだった。 「なんや、えらいべっぴんさんや言うて、男衆がこぞって見に行ってはるらしいわ」  へぇ、と喉を鳴らしながら返事をする。  世良の視線は前方でも悠月でもなく、あぜ道の先に隠れている汐の自宅へと向けられていた。 「って、世良。聞いてはる?」 「聞いてる、聞いてる」 「なんや興味なさげやなぁ? いつもは旅人やって聞いたら一番に口説きに行くのに」 「別に口説きに行ってる訳じゃねぇって。ちょっと顔見に行ったら、向こうが勝手に寄ってくんだよ」 「はあ……。俺も、いっぺんでええからそんな台詞言うてみたいわ……」 「言や良いじゃねぇか?」 「言うたらええってもんちゃうんやで?」  諭すような悠月に口調に眉を顰める。言いたいのならば言えば好きなだけ良いだろうに。更に世良を憐れむような視線を向けられ、余計に意味が分からなくなる。 「これやから色男は……」 「訳分かんねぇこと言ってんなよ」  溜息をつきたいのは此方だ。別に、茶屋の娘が可愛かろうがさほど興味はない。数日前の自分ならば、今すぐに回れ右をして茶屋へ向かっていたかもしれないが……。  ふと脳裏を過った汐の顔に、世良はゆっくりと足を止めた。 「悪りぃ、悠月。用事思い出したから先、帰っとけ」 「なんやっ、抜け駆けかいな!」 「違げぇよ。野暮用だ」  わんわんと吠える悠月を他所に、世良は身を翻す。茶屋に行く訳ではない、と振り返り告げたところで、悠月は納得していない様子だ。  けれど、ここで方向転換をしてしまった事を、世良は酷く後悔した。 「こんにちは。世良様」  長い一本道を辿って来ていたのは一人の女性。呉服屋の娘である春姫(はるひ)だった。現在、汐が女達の憧れの的ならば、男達の憧れの的は間違いなく春姫だろう。花魁とも見間違えるほどの煌びやかさと華麗さを持つ彼女は、世良の幼馴染とも呼べる存在である。 「ああ、春姫か」 「ちょうど、柳屋さんへお届け物をしに参りましたの。届け終わったら、一緒にお茶でもしませんこと?」 「あー……いや、俺も今から用があんだわ」 「それは残念ですわ」  春姫は悲しそうに眉を下げ、あからさまに残念そうな顔をする。しかし、彼女に近づいてはいけないと思うのは本能に近いそれだ。否、今までの積み重なった記憶が、彼女には指一本すら触れてはならないと言っている。  彼女の父親が経営する呉服店は、世良の両親が贔屓にしている店でもある。故に、彼女が柳屋への遣いを頼まれたように、世良も呉服店への遣いを頼まれる事は多々あった。ただ最近は、彼女の父親に合う度に婚姻の話を持ち掛けられるのだ。この婚姻に関して乗り気でないのは世良ただ一人。彼女は前向きに検討しているどころか、前のめりに近づいて来ようとする。ここで手でも繋ごうものなら、責任問題だと言って向こうの父親に無理やり話しを進められ兼ねない。  正直、世間的に見れば、春姫との結婚は悪い話ではない。むしろ、柳屋に次ぐ名家が春姫の家であり、二人の間に婚約が成されていない事の方が不思議なのである。我が父親が、世良の意見を尊重してくれていると言えば聞こえは良いが……、実際は謎のままだ。 「声、掛けてもらったのに悪りぃな」 「いえ。また今度、お誘い致しますわ」  口元に指先を当てて意味深に笑む彼女。その容姿も、女性としての教養も礼儀も、何一つ文句の付け所がない。良い女である事は間違いないのだが、逆にそれがつまらないと思うのだ。きっと今以上の深い関係になれば、彼女からもぼろが出て来るだろう。しかし、そこに至るまでの興味を持てずに居る。  単刀直入に言えば、彼女には全く恋愛感情を抱けないのだ。

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