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『特別』な人 其の二

 春姫の背中を見送った世良は、一つ息をついて足を進める。  目的地はもちろん、このあぜ道の先に隠れた古民家だ。  あれから、汐の『素』を知ってから、世良の楽しみが一つ増えた。  用がある訳でも呼ばれた訳でもないけれど、世良は頻繁に汐の家を訪ねている。  彼は随分と気分屋で、これでもかと言わんばかりに相手にされる日もあるが、此方をちらちと一瞥しただけで一言も会話をしない日もあった。掴みどころがないと言うか、自分勝手と言うか。汐はとにかくよく分からない男だ。  ただ、そんな彼の傍に居心地の良さを感じている事も事実。  そうでなければ、理不尽に墨を投げつけられる事を溜息一つで許せはしないだろう。  来るなら庭から入って来い、と告げた彼は、いつも入口門を固く閉ざしている。今にも壊れそうな頼りない鍵が引っかかっているだけなのだが、開きっぱなしにしていると、町娘達が勝手に入って来てしまうのだとか。それは迷惑な話だな、と肩を竦めつつも、世良だってやっている事は町娘達と変わらない。 「……で? 今日は何してるんっすか、それ」  密林とも呼べる庭を抜け、縁側から部屋へ上がるや否や、世良は呆れ気味に彼へ尋ねる。  現在、汐の綺麗な掌にあるのは筆ではなく、小指程の大きさの和紙だった。 「見りゃ分かるだろ。ローションです。仕事に生かせるかと思って買ったの」 「ろー……しおん?」 「カタカナ通じないのって不便ね。潤滑剤って言ったら分かる?」 「ああ、通和散っすか」 「あー、そう言う名前で売られてた気がするわ」  通和散とは言わずもがな、男色時の肛門に塗って滑りをよくするためのものだ。店頭に並んで居るのは、汐が手にしているような小ぶりの和紙。その和紙を口に含めば、和紙に付着させた粉末と唾液が混ざって濃厚な潤滑剤が出来るのだ。男色を好まない人間は、滅多に手にする事のない代物とも言える。 「世良は使った事あるんでしょ?」 「いや、ないっすね」 「うん? 男、抱いた事あるって言ってなかったっけ?」 「あん時は唾液で代用しました。つーかそれ、口の中に入れるんっすよ? 汚そうだし、体に悪そうじゃないっすか?」 「お前って、たまに育ちの良い坊ちゃんみたいな発言するよね」 「実際、良い家で育ったんで」  はいはい、と興味なさげに掌を振った汐は、先ほどまで睨めっこをしていた通和散を元の包みへと戻す。仕事に生かす、と言っていたが、眺めるだけでどう生かせると言うのだろう。不思議に思いながら首を傾げる世良の思考を、汐は目敏く悟ったらしい。 「今日はこわーい狼さんが来たからね。使うのはまた今度」 「使う、って……」 「あ。今、厭らしい事考えたでしょ」 「……そりゃ、考えるだろ。そう言うもんなんだし」  自分の思考は全うであったと主張したい。  脳裏に浮かんだのは、通和散が混ざったどろりとした唾液が汐の着物を汚し、口端から糸を引かせている光景、――そこまで考えて、世良は小さく首を振った。これ以上の妄想は危険である。  向き合った彼は、まるで世良の心を見透かしているかのように意味深に笑んだ。 「どう使うのかは、世良君の想像にお任せします」  他人行儀な態度で言い切った彼は、どこからか取り出した筆をくるりと回しながら紙へと向けた。彼の言動は、まるで世良を遠ざけているかのように思えて良い気がしない。もしかしたら、彼は自分の知らない誰かと体を重ねるつもりでいるのではないだろうか。そんな予感が脳裏を巡って仕方がないのだ。 「汐さん」 「なに」 「それ、使う時は呼んで下さい」  そう言えば汐は、挿入されるのは痛いから嫌だと言っていた。彼があの通和散を使うのならば、男を抱ける店へと赴くしか考えられない。見知らぬ誰かが彼の肌に触れ、唇に触れる。それどころか、彼の全てを受け止めながら、あの艶めかしい瞳を独占する。正直、考えたくもなかった。彼が、自分以外の誰かに触れるところなど……。 「なんで? クソ餓鬼を呼ぶ理由と必要性は?」  冷静な色をした瞳に捉えられ、息が詰まった。そりゃそうだ。呼ぶからには、相応の理由が必要になる。それも、彼が必要性を感じる理由でなければ意味がない。ただ、汐が知らない誰かに触れるのが嫌だ、なんて。そんな訳の分からない子供染みた嫉妬心に蝕まれている自分が、酷く恥ずかしくなった。  故に、世良は必死に頭を回転させ、どうにか理由を取り繕う。 「客観的に見た方が、……良いだろ? 絵に、したいんだったら、あんたが、わざわざ……」  惑う視線。子供染みた我儘を言っている事は自分でも分かっている。  きっと汐には、駄々をこねる餓鬼にしか見えていないのだろう。 「……ぷっ。あははっ。ほんと、世良は良い顔してくれるから有難いわ」  笑いを吹き出した彼に、世良はきょとんと目を丸めるしかない。  自分は彼に笑われるような顔をしていたのだろうか。それはそれで恥ずかしいのだが。 「促進良好。アホみてーに創作意欲が沸く。ついでにさ、ちょっと脱いでみてよ」 「……は?」  ついでに、と続けられた言葉の意味が理解出来ない。  否、今ばかりは世良の分かる単語だけが並んで居たはずだ。  分からないのは汐の真意。 「モデルになってって言ってんの」 「もでる?」 「訪ね返されても困る。モデルって何て言えば良いの。題材? 被写体? あー……とにかく、お前の絵が描きたいから、そこに立って。ついでに脱いで」

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