12 / 39
彼との距離 其の一
**
広がる青い空。小鳥の囀りが聞こえる穏やかで静かな時間。肌寒い秋風も、ぽかぽかとした太陽の日差しには勝てず、今はその寒さを潜めている。
世良は今にも腐り落ちそうな縁側に腰かけ、晴れ渡った空を眺めていた。
「……腹、減った」
そうぼやく世良に、返答の声はない。
この古民家の家主は、朝から絵を売るために出かけている。どこでどのようにあの破廉恥な絵を売っているのかは分からないが、ちょうど世良が訪れた時、商品となる絵を抱えた汐の表情はとても清々しかった。
ここ最近、絵を描くための三脚の前から一歩も離れなかった汐。まるで呪い人形のように無表情のまま絵の中の男達を見つめていた。何の感情を込める訳でもなく繰り返し紡がれていたのは、『締め切り』への殺害予告。どんよりとした地獄のような空気は、さすがの世良でも居づらいと感じてしまう程のものであった。
「つーか、いつ帰って来んだよ、あの人……」
一向に彼が帰って来る様子はない。そろそろ昼食の時間だと言うのに。どこかで食事をして帰ってくるつもりなのだろうか。待ちぼうけをくらわされるのは御免だが、他人の家で許可なく料理をする訳にもいかないだろう。
「腹減ったし、つまんねぇし、暇だし……、会いてぇ」
ぽろりと漏れた本音。
この古ぼけた古民家の、誰よりも美しい彼に会いたい。出来る事なら抱きしめて、口付けて、喘がせて、他の誰の手にも届かないような場所に閉じ込めておきたい。彼への独占欲は日に日に強まるばかりだった。
「拗れてんなぁ、俺……」
自分の思考を鼻で笑い飛ばした世良は、軋む縁側に寝転がってぼんやりと雑草の森を見つめてみる。ひんやりとした床板が心地よくて、静かな時間は酷く瞼を重くした。深くなる瞬きの中、浮かぶのは汐の顔である。
「好き、か。……好きだよな、多分……汐さん、が、……好き……」
自分が何を口走っているのかすら碌に理解が出来ない程にまどろむ思考。
大きく開いた欠伸口を塞ぐように掌を当てた時だった。
「ただいま」
視界いっぱいに広がった端正な顔に、ぴたりと動きが止まる。
その瞬間、広がっていたはずの欠伸も眠気も一気に吹き飛んだ。
「おかえ、り……」
「寝てたの?」
「寝かけてた」
起き上がって伸びをする。
なんだか清々しい朝を迎えた気分である。
そんな中、背中にとす、と何かがぶつかる衝撃。
恐る恐る振り返れば、彼の額が背中に押し付けられていた。
「何、っすか?」
「腹減った」
「俺もっす」
「飯……、何が良い?」
「作ってくれるんっすか?」
「俺、料理とか出来ないから。お前が作って」
「料理出来ないって、今までどうやって生きてきたんっすか……」
彼からの返答はない。無言のままぐりぐりと頭を背中に擦り付けられ、そのこそばゆさに身を捩った。しかし、世良の表情が緩む理由はこそばゆさが原因ではない。
「んな可愛い事してっと抱きますよ」
そう言って彼の頭に伸ばした手は、乱暴に振り払われる。
「俺は腹が減ったの。お前が飯作ってくれなかったら餓死しちゃうの。分かる? しわっしわのカラッカラに乾いて死ぬよ。世良は俺を殺す気?」
理不尽と言うのか、横暴と言うのか。世良は一つ大きなため息をついて立ち上がった。この家の食料、もとい町民達が持って来てくれた野菜や米は、全て庭の貯蔵庫に置いてあるらしい。膝丈の雑草を掻き分けながらがさがさと歩く。しかし、その足取りは些か重い。
「情けねぇな……、俺」
冗談交じりにしか彼への好意を伝えられない自分を情けなく思う。否、好意を表す言葉とすら言い難いものを、こっそりと彼にぶつけて自己満足に浸るだけ。正直、今の世良には当たって砕ける勇気はなかった。恋人も特別も作る気はない汐に、真正面から好きだと伝えたところで、のらりくらりとかわされるのが目に見えるから。
あの夜のように強引に組み敷いてしまえば、彼の体を穿つのは簡単だろう。ただ、――
「……違げぇんだよな、なんか」
彼を抱きたいだけならば、さっさと組み敷いて襲っていると思う。酒を飲ませれば自分を受け入れてくれるかもしれない。深く絡まり、獣のように求め合う。酒でおおらかになった心と、たんと解した体での性行為は随分と気持ちが良いはず。
けれど、違うのだ。きっと。
世良が求めているのはそうじゃない。
上手く言えないけれど、手を繋いで、抱きしめ合って、微笑み合うような。
そんな小さな幸せが積み重なった先にある交わりが欲しいのだ。
この、言葉では表しきれない感情を彼に届けるのは至極難しいことで、結局は、自分にしか分からない好意の言葉を彼に投げ続けるか、何の飾りのない言葉を伝えてかわされ砕けるかの二択に行き付く。
目の前に立ちはだかる極論を前に、世良はどうすれば良いのか分からないのである。
自分が、どうしたいのかも……。
ともだちにシェアしよう!