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心 其の三
茶屋で、美玖理と出会ってから数日。
どうやら悠月は惜しげもなく茶屋に通っているようで、最近は町でひょっこり出会った時に話しかけられるようになったと喜んでいる。
ただ、彼女の口から頻繁に汐の名前がでてくる事に落ち込んでいたりもする。まあ、あの出会い方なら汐に惚れても仕方がないだろう。他人の恋愛話は基本的に右から左に通す主義だが、今回ばかりは世良も危機を感じるほかない。
がっくりと肩を落とした悠月を宥め、仕事へ戻れと背中を押した後、世良が向かう先はもちろん汐の家だ。今日は散歩がてら正面から入る事にしよう。――と言うのは建前で、先日渡された門の鍵を使いたくてうずうずしているのだ。汐に近づこうとする女が居る事は危ぶまなければいけない件だが、こうして自分だけに鍵を渡してくれた事に浮かれない訳がない。
意気揚々と住宅地へと踏み込んだ時。
前方に大きな袋を抱えた汐の背中が見えた。
「汐さん」
彼を振り向かせようと発した声。
けれど汐が此方を見る前に、どこからかやってきた春姫に呼び止められてしまった。
「世良様」
「んだよ?」
「お姿が見えたので、ついお声を掛けてしまいました」
「そうかよ」
「そう言えば、来週のお祭りは参加しますの?」
「あー……行くには行くけど?」
「今年はお神輿を担がれないのですか?」
「俺は火消じゃねぇし。声も掛かってねぇからな」
「それは残念です。去年の世良様はとても力強くて素敵でしたのに」
春姫はそう言って肩を竦めた。残念と言われても、本職から参加要請がない限り、世良には参加権すらないのだ。それに、今年はのんびり屋台を回りたいな、と悠月と話したばかりである。今更、神輿を担げと言われても頷きはしないだろう。
「私、今年は新しい浴衣を誂えますの」
「そうか。また祭りで会った時に見せてくれ」
「ええ、是非。世良様も気に入って下さると嬉しいです」
「ああ。そうだな」
途切れそうになる会話を上手く繋ぎ止められ、なかなか歩き出す事が出来ない。どうにか春姫に、また今度、と手を振れたのは、立ち止ってから暫く経った頃だった。優雅に身を翻る春姫を他所に、世良は少し早歩きで進む。
そして、初めて使う鍵に心浮かれながら、世良は見慣れた古民家へと足を踏み入れた。
「汐さん。何してるんっすか?」
「あー……鍋、買ってきたの。どこに置けば良いか分かんなくって困ってたとこ。お前、鍋のある場所知ってる?」
家に入るや否や、鍋を持って立ち尽くしていた汐。
確か小さな鍋は、戸棚の二段目に置かれていたはずだ。
「ああ、この空いてるとこね。サンキュ」
「前の鍋はどうしたんっすか?」
「なんか取っ手が壊れたみたいで、新しいのが欲しいって言われてたんだよね。どれが良いのか分かんないし、とりあえず前と同じようなの買って来たの」
誰に『言われた』のかなど尋ねなくとも分かる。鍋を片付けた汐は、大きく伸びをしていつもの部屋へと入って行った。一方の世良はと言うと、気にしないように記憶の奥底に埋めていた『料理番』の存在を前に、もやつく心を抑えられないでいる。
「そう言えば、お前。門の鍵使ったの?」
唐突な質問だった。
けれど、彼が唐突なのはいつもの事だ。
「使ったっすけど?」
「……そう」
「なんっすか」
「別に」
何の含みもない声色に、世良は首を傾げながら部屋へと上がる。使ってはいけなかったのだろうかとも思うも、そうであれば、使うな、と釘を刺されたはずだ。汐は何時ものように気だるげに目を細め、描きかけだったのであろう絵へ向かって筆を走らせている。
そんな彼を横目で確認しながら、世良が縁側へと腰を落とした時だった。
「お前さ、」
「なんっすか」
「……俺と居て、楽しい?」
「楽しいっすよ、そりゃ」
まるで用意されてあったかのように口を出た、楽しい、と言う言葉。
よくよく考えてみれば、あまり楽しいと感じた事はない。
彼の隣に居る時の感情は、常に『嬉しい』だ。
「……なんで?」
「なんでって、んな事聞かれても……」
「ここに来ても脱がされてるか、ぼんやりしてるかだけじゃん。あと、俺にこき使われてるか」
彼の意見は間違ってはいない。世良は彼が好きだからこそ、一緒に居たいと思う訳で。取り立てて特別な感情を抱いていなければ、ただの面倒なお兄さんでしかないだろう。汐の問いに色々と答えたい事はあるが、まずは世良が一番気になった事を訪ね返してみる。
「なんか、嫌な事でもありました?」
「別に」
「じゃあ、なんでそんなに不機嫌なんっすか?」
「何でもないし。……あー。やっぱ、今はお前の顔見たくないから帰って」
「理由は、」
「帰ってって言ってんの。マジで邪魔。お前、今日は要らないから。早く帰って」
今まで散々彼の素を見て来た世良だが、ここまで不機嫌を露にされる事は一度もなかった。世良が大人しく頷いて帰る事に決めたのは、彼が『今日は』と告げたから。気まぐれな彼のことだ。誰とも話したくない日もあるのだろう。今ばかりは家に帰って、久ぶりに悠月を酒でも飲もうか。
がさがさと草木を掻き分け、柳谷前の一本道へ出る。陽が掛けて来た時間だと言う事もあり、柳屋には何人もの宿泊客らしき旅人が向かっていた。
「世良」
客達にうまく紛れたつもりでいたのだけれど……。
前方から近づいて来る母親と、その手にある風呂敷には嫌な予感しかしない。
「これ、汐さんに届けてくれるかしら?」
「……だろうな」
断りたいのは山々だ。ただ、この時間帯に動ける人間が自分しか居ない事は充分に理解している。母親から強引に風呂敷を渡された今、世良は回れ右をして、不機嫌な彼の家へと戻る事を余儀なくされたのであった。
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