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心 其の五

「汐さん……?」  名前を呼ぶも、聞こえてくるのは可愛らしい寝息のみ。 「いや、これ……どうしろってんだよ……」  華奢な体、細い腰。白い肌。  この世界の何よりも美しいと思えるものが目の前にある。  形の良い唇が小さく呼気を通す光景にごくりと唾を飲みこんだ。  据え膳食わぬは男の恥、と大声で言い放ったのは、遊び好きの父親だったか。決してあの人のようにはなりたくない、と思いながら育って来た幼少期。今だって、妻が居るにも関わらず、毎晩のように女をとっかえひっかえしている父親を軽蔑する事さえある。  ただ、この瞬間だけは、父親のようになりたいと強く思ってしまった。 「……くっそ」  彼を抱き寄せた腕は震えている。この綺麗な肌に口づける勇気すら出ない。それはきっと、世良が小心者になってしまったわけではなく、彼を好きになってしまったから。彼の我儘を溜息一つできいてやっている時点で、世良は汐に勝てないのだ。  恋愛と言う駆け引きの敗者はいつも、好きになってしまった方。 「お前は俺を襲えない……、か。その通りっすよ」  彼を抱きたい気持ちを否定はしないが、世良が何よりも欲しいものは彼の気持ち。それを無視して彼の体を貪る行為に、違う、と感じてしまった世良は、実力行使をして汐に嫌われてしまう事を恐れていた。  そんな世良の気持ちを汐がどこまで見抜いているのかは分からないが、さすがにこの仕打ちはひど過ぎやしないだろうか……。 「……なあ、汐さん」  世良の中に湧き出た精一杯の勇気は、彼の髪に鼻先を埋める事でとどまった。 「俺、……あんたのこと好きなんっすよ。割と、どうしようもないくらい。……どうせ、薄々勘付いてんだろ。それなのに……、なんで俺を試すような真似するんっすか。どうしたら、あんたは俺のこと……、好きになってくれるんっすか……」  ぽろぽろと零れ落ちる言葉は、まるで涙のようにも思える。自分が求めているのは、単なる体の繋がりではないのだ。振り向いて、その愛おしい声で甘い言葉を囁いて欲しい。 「汐、さん……。愛して、ます……」  最後の嘆きは静まった室内に消えた。  少しづつ思考を埋めつつあった睡魔に飛び込んだのは、自分の事を、愛している、と言ってくれる汐に会うため。この悶々とした感情を収めるために、世良はゆっくりと瞼を閉じたのだった。 *  世良が目を覚ましたのは、まだ辺りが薄暗い早朝の事。  隣に汐が眠っている事を思い出すも、傍に温もりは感じられない。 「汐さん……?」  起き上がって確認してみるも、汐の姿はどこにもなかった。 「ちょ、どこに……っ」  慌てて室内を見回す。  すると、可愛らしい寝息を立てる彼の姿はすぐに見つかった。 「ったく、なんでこんなとこで寝てんだよ……」  彼が居たのは世良の枕元。  手には筆が握られており、傍には硯と一枚の絵が落ちている。  何を描いていたのだろうか、とそれを覗き込んだ時。  ぐと胸を突き上げるような感情に、涙すら零しそうになった。 「俺の、寝顔……」  目の前で眠る彼とは比にならない程に可愛げのない寝顔だ。 「着物、ちゃんと着せて貰ったの初めてだな……」  世良は、胸中に走った感情を必死に抑えつけた。  今まで世良を描いてくれた事は何度もあったけれど、それはいつも彫り物有りき。故に、世良を描きたいのではなく、桜を描きたいだけだと思っていたのに……。  彼はどんな表情で俺の寝顔を見つめ、どんな思いで絵を描いたのか。  そんな事ばかりを考えてしまい、思わず表情が緩む。 「ったく、邪魔だーとかっつって一回追い返しやがったくせに」  ゆっくりと伸ばした指先は彼の髪を優しく梳き、頬を包む。親指で撫でるように触れた柔らかい唇。その感覚が無くならない間に、世良は彼の温もりが残る親指を、自らの唇へと押し当てた。 「……期待しますよ、俺。本気で」

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