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当たって砕けて 其の一
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あの絵を見た瞬間、彼の懐に飛び込んでも良いと言われた気がした。
あくまで気がしただけなのだけれど。それでもその勘違いは、世良の中で燻っていた思いを口に出させる程の原動力となる。
「……汐さんのこと、好きなんっすけど」
描きかけの絵と睨めっこをしていた彼の動きが止まった。
何度か瞬きをしながら此方を見遣る綺麗な瞳。
黙ったまま、まじまじと此方を見られるのは至極居た堪れない。
「お前さ、」
膝で頬杖をついた彼は、一旦言葉を切って軽く目を閉じた。
再び彼の瞳と向き合うまでの時間は数秒程度。
それはとても長い時間に感じられる。
世良の心臓は、驚く程大きな音を立てていた。
「ほんと、良い顔するよね」
え、と短い声が漏れる。
肯定とも否定とも取れない返答。
「クソ餓鬼のくせに。どこでそんなの覚えてくるの」
汐はそう言って、無邪気に笑っていた。
それはもう、楽しそうに……。
*
「あー、くっそ……」
世良は頭を悩ませていた。不完全燃焼、と言うべきだろうか。真正面から投げた愛の告白をはぐらかされたもどかしさ。世良があのまま口を噤んでしまったのは、汐が女性のあしらい方を熟知している事を知っているからだ。
自分だって、興味のない女性からの告白は、角の立たない言葉を選んでやんわりとはぐらかす。それを、まさか世良自身が受ける事になるとは思ってもいなかったけれど。
「どうすりゃ良いんだよ……」
どうやら自分は振られてしまったらしい。ただ、それを理解しても尚、彼への気持ちは変わらないままだ。むしろ、どうして振り向いてくれないのか、と苛立ちばかりが募る。
「世良。どないしたん? 祭り、楽しないんか?」
「ん? いや……。そうじゃねぇんだけど」
ふと我に返れば、皆が笑顔で祭りを楽しんでいる光景が目に映った。神社に建てられた櫓。今頃、神輿を担いだ火消達が町中を盛り立てている事だろう。ずらりと立ち並ぶ屋台からは、水飴や天婦羅、団子と言った美味しそうな匂いが漂っている。
「なんや、昨日から元気ないんちゃう?」
「あー……。まあ、色々あってな」
心配そうに此方を見遣る悠月から視線を逸らす。顔を向けた先に居たのは、仲良く手を繋いで歩いている見知らぬ男女だ。あの仲睦まじい姿を、羨ましいな、と思ってしまうあたり、自分が今、未知なる感情に飲まれている事を実感させられる。
「なあ、悠月」
「なんや?」
「好きなやつって、どうやって口説きゃ良いんだ?」
「……熱でもあるんか?」
「ねぇよ、馬鹿」
此方は真剣に尋ねていると言うのに、酷い返答である。ただ、悠月も真剣だったようで、世良の体調をしてどこかで休憩するかと尋ねてくる始末。
「体調は悪くねぇっつーの。頭も打ってねぇぞ」
「じゃあ、なんでやのん。世良が声掛けた女の子は百発百中なん、知っとんやで? 女の子の口説き方や、逆に俺が教えて欲しいっちゅーに」
「そりゃ、最初から俺に好意がありそうな女に声かけてんだから、断られる訳ねぇだろ」
世良の言葉に溜息が混ざる。今まで、自分がどれだけ楽をして来たのかを実感したのだ。最初から此方を見てくれる相手が居ること自体、随分と優位な立ち位置であった事を気づかされた。恋愛において一番難しい部分を、世良は今まで免除されてきた、と言っても良い。だからこそ、今になってこんな初歩的な部分で躓いてしまうのだろう。
「世良もちゃんと恋出来たんやなあ?」
「んだよ、馬鹿にしてんのか?」
「安心してるんや」
どうして悠月が安心するのかは分からないが、馬鹿にされていないのであればそれで良い。
「最近の子は、優しい男が好きらしいからなあ。まずは、相手の好みに近づくように努力するべきやと思うで?」
「優しくはしてんだけどな……。我儘きいてやったり」
「なんや、尻に敷かれとんかいな」
「うるせ」
悠月からの助言を受け取りながら歩いていると、正面に一件の露店が見える。異国からの輸入品を扱う店だ。
「相手の気ぃ引きたいなら、贈り物でもしてみたらえんちゃう?」
「贈り物、なあ……?」
露店に並ぶ品々を見つめながら、悠月はそんな事を告げた。
首や腕に付ける飾り物。あまり見た事がないような石や宝石で装飾されたそれは、町の店ではお目に掛かれない代物だ。そんな中で見つけたのは、見慣れない生活用品。
「鉛筆と消しごむ……。これか」
手に取った感じはさほど高級そうなものには見えないのだけれど、先日、汐が告げていたように、消耗品にしてはあり得ない値段がついている。とは言え、
「これ、三つずつくれ」
「こんなもん買ってどないすんねん?」
「……汐さんが欲しいっつってたから」
露店の店主に金を払っていると、悠月は間延びしたような声を上げ、それから世良の肩を叩いた。
「ま、お互い頑張ろな」
そんな悠月が見つめていた先。人込みの隙間を歩いて行く二人の男女。汐と美玖理である。
楽しそうに話しながら歩いて行く二人は、屋台が並ぶ場所を通り過ぎて、住宅地の方へと向かっているようだった。
ふつふつと湧き上がる得体のしれない感情。今すぐに駆けだして、汐の手を取り彼女から引きはがしたい衝動に蝕まれる。世良がそんな感情を押し込めるにあたって、鉛筆と消しごむの入った紙袋がくしゃりと音を立てた。
「お似合いな二人やし、俺なんかが美玖理ちゃんの隣に立つより絵になるわ。ほんま」
悠月はそう言いながら肩を竦めると、特に目的もなく足を進め始める。
「それで……、諦めるってのかよ」
「なんや。世良らしいない発言やなあ? 自分を好きになってくれる相手や星の数ほど居る言うのに、そこまで固執する必要もあらへんやろ?」
当然のように告げられた言葉。それは今までの世良が、失恋をした悠月に告げて来た言葉である。好きになってくれる相手は星の数程いる。それなのに、自分に興味すら示さない女に必死になるなんて馬鹿らしい、と。
そんな考えが出来なくなったのはいつからだろうか。否、考えずとも分かる。世良は汐に会ってからと言うもの、町娘に声を掛ける事は無くなっていた。無意識の内に。
「世良は知らんやろうけど、ほんまに人を好きになってしもたら、どんな状況でも諦めきれへんもんなんやで?」
隣に居た悠月を見る。
彼はとても嬉しそうな笑みを浮かべ、世良の背中を押した。
「お前もいっぺん当たって砕けて来いや!」
素っ頓狂な声を上げながら数歩前へ。
ただ、この思いがけない数歩が、世良の心を強く強く押し出した。
「悠月。……これ、返品されたら貰ってくれ」
「嫌やわ。そんな縁起の悪そうなもん」
「……だよな」
そう言って肩を竦めた世良は笑っていた。
楽しくもないのに笑みが浮かぶ。
まるで、強敵を目の前にした火消のように……。
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