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当たって砕けて 其の二
世良は汐の家に向かっていた。
勢いよく門を開き、家の中へと踏み込む。
そもそも、汐が帰って来ているかも分からない。もしかしたら、先ほど一緒に居た美玖理と居るかもしれない。……もし、彼が女の子と二人っきりでこの障子の向こう側に居たとしたら。自分は、冷静で居られるだろうか。そんな不安が脳裏を過り、なかなか目の前のそれへと手を伸ばせないで居た時。
「……誰。世良?」
汐の声だ。
よそ行きのそれではなく、いつもの『素』の汐だった。
「そんなとこで何してんの? 影が映って怖いんだけど。入るなら入りなよ。不審者」
「不審者は酷くねぇっすか」
世良は少し安堵の息をつきながら部屋へと入る。
そこに居たのは見慣れた汐、だた一人。
彼はいつものように、男の裸を目の前に、死んだ魚のような目を細めている。
「まだ、帰ってねぇのかと思って」
「まだってなに。俺、ずっと家に居たけど」
淡々と紡がれる声色に対し、世良は嘘の指摘を飲み込んだ。祭で彼の姿と見たと言ったところで、人違いだとかわされる未来が予測出来たからだ。けれど、彼がどうして嘘をつくのかはなんとなく分かる。汐は世良の気持ちを知っているから。美玖理と居た、だなんて事を世良が知れば、面倒な嫉妬に時間を割かれるとでも思っているのだろう。
「……そうっすか」
少し間を置いて、世良は小さく頷いた。
「なに。不満があるなら聞くけど。あー……、でも忙しいから後にして。こっちは締め切りが近くってイライラしてるってのに、新しい仕事積んじゃったんだよね。キャパオーバーも良いとこ。ほんと、こんなつもりじゃなかったんだけど」
ぶつぶつとお経のような文句を口にする汐は、世良が彼に近づいている事など気にも留めて居ない様子だ。邪魔をしなければどこに居ても良い。それが、汐と世良の暗黙の決まり事だから。
「汐さん」
世良は彼の肩を掴んだ。不機嫌そうに此方を見つめる視線と合うや否や、世良はその唇に口付けを施した。そんな世良の行動に、汐の反応は案の定、
「邪魔するんだったら帰って。今、忙しいの。クソ餓鬼の相手する暇がない事くらい見て分かんない? 話だったら後で聞くって言ってんのに。……ってか、そもそも急にキスしてくるとか何なの。セクハラで訴えるよ?」
意味が理解出来ない言葉がいくつか並んでいたものの、汐が先ほどの口付けで不機嫌さを増した事だけは分かった。けれど、まずは彼の気を引いておかなければいけないから。
「これ。あげます」
「……鉛筆と消しゴムじゃん。買ったの? お前が?」
「汐さんにあげようと思って」
そう、と息をつくように告げた汐は、それらを受け取ってくれた。だが、その表情は一向に晴れない。それどころか、困ったように眉を顰めた後に告げるのだ。
「それで、いくらだったの。これ。全額は無理だけど。払うから言って」
きっと彼が指先で引き寄せた袋には金が入っているのだろう。
「別に良いっすよ。贈り物なんだし」
「良くない。これ、どんだけ高価なものか分かってないでしょ、お前」
汐は真剣だった。
説教と言うべき口調に動揺する。
「まあ、親のスネ齧って生きてる風来坊には金を稼ぐ大変さを分かれって方が難しいんだろうけど。何をしてやった覚えもないのに、こんな高価なものをクソ餓鬼から貰うのは、大人として頷けないの。まあ、全額返せない時点で駄目な大人なんだろうけどさ」
世良は思わず肩を竦め、視線を下げた。言い返す言葉もないのだ。これらが高価なものである事は分かっていたけれど、これを買うだめにどれほどの時間働いて、汗水を垂らさなければいけないかなど、世良はこれっぽっちも考えていなかったのだ。そこまで頭が回らなかった自分の餓鬼さに打ちひしがれ、酷い羞恥心すら沸いて来る。
「……汐さん。悪りぃ、俺」
「あー。ごめん、今のは俺が悪かった。お前に説教出来るような人間じゃないのにね。偉そうな事言ったわ。謝らないで良いよ。さっきのは忘れて」
彼の掌がひらひらと振られる。
そう言った彼もまた、申し訳なさそうに眉を下げた。
彼に喜んで貰おうと思っただけなのに。
どうしてこんな事になってしまったのか……。
世良が拳を握りしめた事に気付いたらしい彼は、呆れたような笑みを零した。
「気にしないでって言ってんのに。代わりにさ、お前の好きなもんあげるから。機嫌直しな、クソ餓鬼」
「……どーせ、餓鬼っすよ。俺は」
「あー、メンドクサイ。良いからそういうの。欲しいもん言えって言ってんの。はよ」
彼の腕が世良の頭を撫でるべく持ち上がる。
そんな急に欲しいもの、と言われても。
世良の頭の片隅にあるのはいつも、この男だけ。
「……あんたが、欲しい」
汐の掌が頭へと乗る直前。彼の細い手首を掴んだ世良は、真っすぐに彼を見て告げていた。自分が何を口走ったのかなど考える余裕もない。
ただ汐は頬をぽりぽりと掻いて「そう来たか」と呆れた笑みで呟いている。
「なあ、汐さん。俺の気持ち、知ってんだろ」
「知ってるけど。それが、なに?」
「なに、って言われても……」
「まあ、鉛筆と消しゴム如きに体を捧げるってのも笑えるけど。良いよ、お前なら。ほら、好きに抱きな」
彼の細い両腕が広げられる。ほら、と再度世良を促す表情は、まるで子供の我儘を聞いてやっている大人のようで。世良は小さく首を横に振った。
「……違う」
「なに。お前が言ったんじゃん。俺が欲しいって」
「違うん、っすよ……」
視界が涙で歪んだ。違う違う、と世良はただ首を横に振る。これでは本当に泣きじゃくる餓鬼と変わらない。頭ではそう思うのに、次々と零れる涙を止められそうになかった。
「……まあ、泣かれるほど愛されてるってのも、悪い気はしないけどね」
世良の泣き顔に対し、汐はとても冷静だった。広げられていた両手はゆっくりと下がり、当然のように筆を握る。彼の視線だって、目の前の見知らぬ男達の絵に向けられてしまった。
「汐さん、俺……っ」
「頭冷やして来な。世良。お前が愛すべき人間は俺じゃない。俺なんかの腕を引いたって、お前には何の得もないよ」
「そんな事ねぇよ!」
「そんな事あるから言ってんの。柳屋の一人息子が、俺なんかに油売ってて良いワケがねーだろ。現実見ろ、馬鹿」
彼は此方を見向きもせずに掌を振る。けれど今、汐に背を向けるのは、なんだか負け犬のようで遣る瀬無かった。まだまだ訴えたい意見はあるのに。自分の気持ちを何一つとして受け取ってくれない彼に、どれほど自分が汐の事が好きなのかを怒鳴り着けたくなる。
ただ、それらの気持ちを必死に堪えたのは、頭を冷やして来い、と告げた汐の意見に同意したからだ。感情のままに一方的に訴えたところで、世良を見ようともしない汐の心には、きっと響かない……。
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