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嫉妬 其の二

「はは、冗談。良いよ、一枚くらいなら。お前、よく働いてくれてるし。給料払えないからさ、その変わりになるなら喜んで」  世良はきっと、汐の優秀な働き手として認識されつつあるのだろう。給料として汐の絵が頂けるのはありがたいが、世良が得たいのはそんな薄っぺらい地位ではない。 「俺は、ただの働き手っすか……」 「なーにスネてんの」 「拗ねてねぇっす」  筆を全て干し終えた時、汐は手を止めて此方を見遣っていた。 「お前ってさ、俺のことめちゃくちゃ好きだよね?」 「好きっすね」  唐突な設問にも、答える事は躊躇わなかった。当然のように出た世良の言葉に対し、喉を鳴らす様に相槌を打った汐は、それから視線を目前の絵へと戻していく。 「人ってのは、なんで好きな人の絵を欲しがるのかねぇ?」  それは、彼の切実な疑問のように思えた。  彼の絵を欲しいと言った世良に対してだけではなく、汐に絵を描いて欲しいと頼んだ誰かに。多分、今、彼が描いていたその絵はきっと、汐に好意を寄せる誰かから頼まれたものなのだろう……と、目前の絵を見遣る彼の視線で推測出来る。 「その絵、売るんっすか」 「そりゃ、依頼品だからね」 「……売るなって言ったら、どうします?」 「断る。お前は、俺の仕事を奪って餓死させる気なの?」  そんなつもりはないのだけれど、見知らぬ誰かに汐が描かれた絵が愛でられると思うだけで腹が立つ。まるで、汐自身が、知らない誰かの元へ嫁いで行ってしまうような心境にすらなってしまうのだ。本当に、恋から生まれた嫉妬心や独占欲と言うものは厄介で困る。 「じゃあ、あんたは俺が養います」 「まともに仕事した事もない風来坊が何言ってんだか」 「汐さんのためなら……」 「ったく、何そんな必死になってんのか知らないけどさ。自分の都合で、人の幸せを摘み取るもんじゃねーよ? クソ餓鬼」  ぴしりと世良を指差した彼は、少しばかり怒っているようにも見えた。この件に関しては、完全に世良が我儘を言っているだけだし、彼が怒るのも当然だ。けれど、どうせくそ餓鬼だ、と開き直った世良は、此方を指差したか細い掌ごと掴んで彼を見降ろしていた。 「あんたの絵が、誰かに愛でられるとか思うだけで我慢ならねぇんだよ」  尽きる事なく込み上げる嫉妬心や独占欲を必死に奥歯で噛み潰す。これ以上は、本当に彼を困らせてしまうと分かっているから。否、今だって、彼は唖然と世良を見上げ―― 「なんで、お前に指図されなきゃいけないの」  一瞬にして、汐の目の色が変わった。  含まれているのは怒りでしかない。  睨みつけるようなその視線に少しばかり怯むも、嫌なものは嫌なのだ。必死に抑えつけようとしていた嫉妬心や独占欲に火をつけたのは、紛れもなく汐の、この反抗的な態度。  別に、自分に従順で居て欲しいなんて思っていない。むしろ、自分の言いなりになる汐なんて汐じゃない。けれど、世良は汐の全てを自分のものにしたいのだ。どこの誰にも触れさせたくない。  どうしようもなく込みあがる幼稚な嫉妬心こそが、汐の気持ちを遠ざける理由になっている可能性すら考えないまま――、ただ、感情のままに怒鳴り散らしてしまった。 「あんたが悪りぃんだろ! どっちつかずな態度取りやがって。からかうのもいい加減にしやがれ。気持ちがねぇくせに……、人のしあわせ、散々踏みにじってんのはあんたじゃねぇか!」  憤怒したまま汐を睨みつける世良。  汐はゆっくりと立ち上がると、世良の肩を強く押した。 「……帰れ」  正直、こんなにも怒った汐を見るのは初めてで、同時に、こんなにも世良が彼に対して怒りの感情をあらわにしたのも初めての事だったかもしれない。 「反論もしねぇのかよ」 「さっさと帰れっつってんだろ、クソ餓鬼」  絞り出すような声で、彼はそう告げた。  反論もない。  世良の怒りを鎮めようともしない。  もしかしたら、これが彼の答えなのかもしれない、と。  世良が大事に温めて来た恋心が、今、完全に拒絶されたような、そんな気がした。

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