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満月の夜 其の一

**  足取り重く帰った自室。汐の家から部屋に戻って来る最中に、草木を揺らす夜風に、血の上った頭はすっかりと冷やされていた。 「なにやってんだよ、俺……」  壁に背を預け、天井を見上げたままずるずると腰を落とす。  今、世良の胸に湧き上がるのは、とてつもない大きさの後悔だけだ。  汐を怒鳴りつけてしまった。幼稚な嫉妬心や独占欲を抑えきれず、感情のまま。汐が世良を『くそ餓鬼』と呼び続ける所以はそこにあるのだろう。今までだって、自分が気づかなかっただけで、こんなにも餓鬼臭い感情を彼に向けていたのだろうかと思うと、更に遣る瀬無くなる。  世良は、薄暗い部屋に差し込む月光をぼんやりと眺めていた。  汐と初めて会い、初めて口付けを交わしたのも、この部屋だったか。あの時に芽吹いた小さな恋心が、まさかこんなにも胸の中で生い茂るだなんて想像もしていなかった。あの時は、どうにか抑え込めると思っていたのだ。気のせいだと言い聞かせて、あの夜の事も、無かったかのように扱おうと決めていた。それなのに――、刈り取る事すら出来ないこの気持ちを、どうしろと言うのか……。 「嫌われた、よな……。帰れって、完全に断られたって、こと……、だよな……」  息が詰まるほどに苦しかった。こんな時に限って、今日は彼と初めて会ったあの日のような、綺麗な満月だった。桜が見たいと言った汐の横顔、月光に晒される白い肌。妖艶で甘い息遣いと、その視線。何もかもが、鮮明に思い浮かぶ。  全てが夢だったら良かったのに。  彼と出会った事も、抑えきれないほどの恋心を知った記憶も、彼と過ごした日々も―― 「……って、何考えてんだか」  世良は、傷心しきった自分を嘲笑うかのように告げた。  現実逃避もいい加減にしなければ。まずは明日、汐に謝りに行こう。例えこの気持ちに応えて貰えなくとも、傍に居させて欲しいのだ。きっともう、世良は彼なしでは生きていけない。そんな気しかしないから。 「汐さん……」  ゆっくりと、頂点に居た月が傾いていく。静かな夜だ。  木々が風に揺らされる音。  落ち着いた心音が、世良の中に響いていた。  次第にまどろむ思考を過るのは、やはり汐の事ばかりだ。  朝になって、汐の家に行って。  それから、またいつものように、何でもない穏やかな時間を過ごしたい、と……。 「世良」  静かな物言いで、部屋へと入って来たのは母親だった。ゆっくりと意識を浮上させた世良の正面で正座をした母親は、起こしてごめんなさい、と小さく頭を下げる。 「別に、良いけど。なに?」  先ほどまで、なんだか幸せな夢を見ていた気がする。  月の位置はすっかりと変わっており、随分と長い間、こうして惰眠を貪っていたようだ。 「食事処に、当主様を迎えに行ってはくれないかしら?」  母親は、親父を当主様と呼ぶ。それこそ、世良が幼い時は『お父様』だとか、『旦那様』だと読んで来た記憶があるのだが……。まあ、それはさておき。母親が、遊び耽っている父親を呼び戻して来いと言う事は滅多にない。何か大切な用事でもあるのだろうか。 「明日の朝、お客様がお見えになるのよ。そろそろ良い時間だし、今夜はきちんと家に戻るように声を掛けて来て貰いたいの」  あの人のことだ。酒で気分が良くなり、そのまま見知らぬ女性と朝まで過ごして寝過ごす事も無きにしも非ず。全ての事を許容した上で、あらゆる事態を見越した行動をとる。やはり女性は凄い、と言うべきかのか。ただ単に、母親の器がとんでもなく大きいのか。 「声、掛けて来るだけで良いのか?」 「ええ。今夜戻って来なければ、一生戻って来なくて良い、と伝えて頂戴。柳屋は私が頂くわ」  至極真剣な面持ちでそう告げる母親に対し、世良は呆れた笑みしか零せなかった。母親は、柳屋を何よりも大事に思っている。きっと、あの父親と長い間添い遂げているのも、柳屋あっての事なのだろう。  そう言えば昔、父親と結婚した事を後悔した事はないのかと尋ねた事がある。  母親は確か―― 「『私に、貴方と柳屋を与えてくれたあの人を、嫌いになれる訳がないでしょう?』、だったか」  夫婦が添い遂げる理由は様々だ。相手を好きになって当然の流れで結婚する者も居れば、親に決められた許嫁と結婚をする者も居る。世良の両親はどちらかと言えば前者だったと聞かされた事があるのだが、二人の間にあるのは愛でもなんでもなく、淡々とした互いの損得。 「大人っつーのは、そう言う生き物なんかねぇ……」  世良の独り言は、静まり返った町に溶け込んだ。家の灯りすらまばらな深夜に、こうして町中を歩くのは久しぶりだった。汐と出会う前までは、それこそ父親のように――あれほどまで酷い遊び方はしてはいないけれど、それなりに女遊びに励んでいたものだ。今ではもう、女を抱くどころか、触れ合いたいとも思えない。

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