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満月の夜 其の三
「……汐さん。さっきは、すいませんでした」
退店した店の正面。周りに誰も居ない事を確認した世良は、汐に向かって小さく頭を下げていた。本来ならば、開口一番に謝罪の言葉を告げるべきだったのだろうけれど、父親の所為でここまで機を逃してしまっていたのだ。
「良いよ。気にしないで。俺も、態度が悪かったし……ね?」
赤らんだ頬が作る穏やかな笑み。例え周りに誰も居ないとしても、彼は家外では絶対に仮面を外さない。故に、告げられた言葉が本心か偽りか。世良がそれを悟る事は難しそうだった。
「仲直りの印に、家まで送ってくれるんだよね?」
変わらず足元はもたついているものの、平たんな道を歩くには問題が無さそうな汐の足取り。変わらず笑みは張り付けられたままだけれど、その言葉は、自分が彼の傍に居る事を本心から許してくれている気がした。
「それにしても、世良君は本当に当主様にそっくりだね。顔立ちもそうだけど、オーラがそっくりだ」
「おーら?」
「雰囲気って言ったら分かるかな?」
そりゃあ、実の親子なのだから似ているのも当然だ。町娘達に綺麗だと言われる顔だって、八割がた父親から貰ったものだと言っても良い。
ただ、父親に似ていると言われて良い気がしない事は事実。
「……あんな節操無しじゃないっすよ、俺」
「そうだね」
汐は呟くように答えた。迷うことなく。
それはきっと、世良が彼の事を一途に思い続けている事を知っているからこその返答だ。だからと言って、今の世良には何を言及できる訳もない。世良の持つ恋心や執着心は、汐にとって至極迷惑なものでしかない事を理解しているから。
故に、世良は話題を変えるべく夜空を見上げて告げた。
「……月が、綺麗っすね」
頭上には、汐と初めてあったあの日を彷彿とさせる月が輝いている。あの時も、月光に照らされていたのは、ほんのりと赤らんだ頬だった。互いに名前も知らぬまま口付けを交わし、濃厚な時間を共有した。桜が綺麗だった、と言った汐の一言が、全ての始まりだったように思う。
汐は今もまだ、世良の桜を綺麗だと言ってくれるだろうか。
こんなにも面倒でうっとおしい餓鬼に、良い男だ、と微笑みかけてくれるだろうか……。
ゆっくりと視線を横へと向けた矢先、彼は月を見上げていた。
何かを慈しむように、愛でるように、瞳を細めて、口を開く。
「死んでも良いわ……、ってとこかな」
世良はきょとんと目を開いた。
一体、この人は何を言い出すのか、と。
「死ぬほど酔ってるんっすか? 休憩します?」
「ははっ。大丈夫。気にしないで」
彼は可笑しそうに笑って、それから世良を見た。
「……こんなに家が遠いと思った事は初めてだよ」
「そりゃあ、滅茶苦茶ゆっくり歩いてるっすっからね、今」
「そうかな?」
「っす」
どうやら自分の歩く速さすら認識できかねている汐。きっと今は、被っている仮面のお陰で平常心を表せているのだろうが、この仮面が外れた時――、彼はどんな表情を世良に見せるのだろう。
早く帰りたい、と嘆くように告げた汐は、また視線を上げて綺麗な満月を眺めていた。
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