33 / 39

満月の夜 其の七

「寒みぃ……。あの人、よくこんなとこで生活出来てるな」  隙間風とは無縁の生活を送って来た世良にとって、この土間の寒さは地獄に近い。  今度、火鉢でも持って来てやろうか、と。彼がここで無事に越冬するための策を考えながら、火を起こして鍋をかける。起こした火の熱で屋内が温まってくれると有難いのだけれど、それにはまだまだ時間がかかりそうだ。  次第に湯気立つ水を見ながら大きな欠伸を一つ。襖一つ隔てた居間からは何の物音も聞えず、既に汐は眠ってしまっている気がする。無理やりたたき起こすのも癪だが、べたべたと着物が纏わりつく体で寝かせておくのも忍びない。今のうちに一度、声を掛けておこう。  世良が身を翻し、居間へと続く襖へ手を掛けた時だった。  がらり、と開く勝手扉。  驚き目を見開いたまま、世良はゆっくりと後方へと首を回す。  この家に来るようになってからと言うもの、世良が客人と鉢合わせた事など一度もない。そもそも、汐に許可を取らずにこの家に上がり込む人間なんて、世良くらいしか―― 「おやおや?」  驚き固まった世良を他所に、訪問者である女性――登美子は、まるで我が子を見つけたかのようににっこりと笑んで、世良の名前を呼んだ。 「世良坊じゃないかい」 「登美さん……? あんた、ここで何してんだよ」  「久しぶりだねぇ」と曲がった腰を少しばかり伸ばした登美子は、此方に近づくなり世良の顔を嬉しそうに見上げている。彼女が『我が子を見つけた』と言う表現はあながち間違いではなく、登美子は世良が幼い時に柳屋で働いていた女衆の一人だった。それこそ、世良が母親の腹の中に居る時から知っており、三年前に彼女が退職するまでは毎日のように顔を合わせていたのだ。 「汐ちゃんの食事を作ってやろうと思ってねぇ」 「汐、ちゃん……?」 「ほら。あの子、料理が出来ないだろう? 志奈や当主様が気に掛けていたようだからね、体調の良い日は作りに来てやってるのさ」  登美子の口調から、どうやら汐は孫のように可愛がられている事を悟るのは容易かった。それと同時に、前に汐が告げていた『料理番』の話がまざまざと脳裏に浮かび、世良はその場ですとんと腰を下ろしていた。 「料理番って、登美さんの事だったのかよ……」  力が抜けた体を満たす安堵。  一方の登美子は不思議そうに首を傾げるも、すぐに身を翻して釜土へと向かった。 「世良坊。湯を沸かしていたのかい?」 「あ、ああ。汐さんが寒いっつーから。ここ、火鉢も炬燵もねぇだろ?」 「そうだねぇ」  がたがたと、登美子は調理器具を漁りながら告げる。その背中に懐かしさを覚えた世良は、その場に座り込んだまま、彼女の動きをぼんやりと眺めていた。 「今度、当主様に頼んで暖を取れるものを持ってきて貰わないとねぇ」 「そうしてやってくれ。……つーか、なんで親父の名前が出てくんだ?」 「おやおや? 世良坊は知らないのかい?」  一体、自分は何を知らないと言うのか。柳屋の当主である父親の顔が広い事は知っているが、そこまで汐に気を掛けてやっている理由が分からない。母親が汐に甘い理由はなんとなく理解出来るが、あの女好きな父親が、女性を侍らすにあたって天敵とも成り得る汐を甘やかす理由などないだろうに……。 「この家は、もともと当主様が使って居たんだよ」 「そうなのか?」 「もう、随分と前の事だけどねぇ」  どうやらあの日――汐と初めて出会った日の事だ。世良の部屋からこっそりと抜け出した汐は、朝帰りをしていた父親に見つかったのだとか。住む家がないと言った汐に対し、父親は絵を売る事を条件にこの家に住まわせている。まさか、あの男色絵を父親が買い取っているとは思えないのだけれど、それが事実らしい。 「……初めて、聞いた」 「汐ちゃんは、あまり自分の事を話さないからねぇ」  その意見には、世良も同意である。この町へやって来た時だって、随分と遠くからやって来たようなのに、旅荷一つも持って居なかったと聞けば尚更。とんとんと、食材を切る音を聞きながら、今頃熟睡しているであろう汐に思いを馳せていたのは自分だけではなかったらしい。 「そうそう。世良坊」 「なんだ?」 「もうすぐ煤払いだからね。汐ちゃんに、しっかり掃除するんだよって伝えておくれ」 「もうそんな時期か……」  年末に向かう某日。煤払いは町民が一斉に家の掃除をし出す日だ。  あの面倒くさがりの汐が、この行事に喜んで参加する姿など想像もつかない。「分かった」と小さく返事をした世良は軽く目を閉じ、この家を掃除するための算段を立て始めたのだった。

ともだちにシェアしよう!