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偉大な背中 其の一
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年の瀬との言葉があるように、年末へと向かう人々の生活は慌ただしくなるばかりだ。
たかだか年が変わるだけ。何をそんなにせかせかとしているのだか、と。世良が呑気な事を考えながら町民達を眺めていたのは去年のこと。
「世良! 挨拶回りに行くぞ、お前も付き合え!」
煤払いを控えた早朝――突然、部屋へと押し入って来た父親に連れられて家を出たが最後。『次期当主』としての顔出しを義務付けられた世良は、毎日のように父親に連れられ各方面の家々へ年末の挨拶をすべく渡り歩く事となってしまったのである。
「つーか、なんで急に……」
「そろそろ世良に当主としての仕事を教えてあげなさい、と志奈に急かされてなあ。このままだと、一生ふらふらしているように見えるんだろう」
がはは、と大口を開けて笑う父親は、随分と他人事のような言い振りをする。当主様がこんなんだから母親の苦労が絶えないのだ、と。絶対に父親のようにはならないでおこうと改めて思った瞬間だ。
しかしながら、『仕事』とあらばしっかりとこなすのがこの男。絢爛豪華で堂々とした佇まいは、町一の商家を担っている男である事をまざまざと見せつけられた。敵わないな、と思う。この父の威厳を尊敬し始めたのは、年末の挨拶に回り始めた先日のことだ。
正直、こうして父親と毎日顔を合わせた事など、幼い頃からの記憶を遡っても見当たらない。故に、今更父親面をされても困るのだ。否、この男はいつでもどこでも「自慢の息子だ」と豪語しているようだけれど、世良にとっては町の噂話より信憑性のない自慢だと思っている。
それはさておき――、
「さあ、世良。飲め飲め!」
一通りの挨拶回りを終わらせた世良は、父親に連れられるがまま食事処へと足を運んでいた。さすがの父親も疲れているのか、女の子の居る場所に行こうとは言わなかった。明日は大雪だろうか、と。世良は杯に注がれる酒を見つめながら思う。
「それにしても、さすがは俺の息子だなあ」
一口酒を含んだ直後に背中を叩かれ、世良は小さく咳き込んだ。一方、随分と機嫌が良いらしい父親は、恨めしく睨む世良の視線など気にも掛けていない様子である。
「大名様の前でも、あれだけしっかりと虚勢を張れれば一人前だな!」
「……虚勢で悪かったな」
突き出された杯に酒を注いでやりながら、最後に訪れた大名屋敷での事を思い出していた。
我が物顔で屋敷を突き進む父親の背中を追いかけていた世良。通された広間は、柳屋の息子ですら、見た事もないほどの豪華さがあった。本心を言えば、その広さと豪華さに随分と委縮していたのだ。それでも、前方を歩く父親の背中が随分と大きく見えたから。
「こっちは次期当主って紹介されてんだ。あんたの隣に並べるくらいにならねぇと、話になんねぇだろーが」
「がはは。我が息子であれ、そう簡単に並ばせはせんぞ?」
「家を継ぐのは、あんたがよぼよぼの爺さんになってからで良い。それまでしっかり働いてくれ」
吐き捨てるように告げた世良の意見は、存外柔らかい父親の表情に飲み込まれた。嬉しそうに口角を上げ、ゆっくりと瞼を伏せる父親。この人もこんな顔が出来るのだな、と他人事のように思ってしまうのは、父親と二人でゆっくりと酒を嗜んだ事が無かったからかもしれない。
「その頃になれば、お前も大事な人と『毎日の幸せ』を築いているだろうな」
しみじみと紡がれた父親の言葉。
そこに未来への重みはなく、ただ本当に、世良の幸せだけがあるような気がした。世良の幸せを持っているのはきっと汐しか居なくて。だからきっと、父親は「奥さんと幸せな家庭」との言葉を使わなかったのだろう――って、ちょっと待て。
「おい、くそ親父。あんた、まさか……」
含みある笑みを向けられ、世良はわななく唇を抑えきれなかった。酒の所為だけじゃない。顔が熱いのは、父親に恋心を知られた息子ならではの感情が湧き上がったからだ。
「そう言えば……、最近、筆を洗う人間がさぼり気味で困っているらしいなあ?」
「う、っうるせぇっ! からかってんじゃねぇぞ、くそ親父」
にたにたと笑む父親を睨みつけた世良は、一気に酒を煽る。
挨拶回りをし始めてから半月。世良は一度も汐の家を訪れては居なかった。
一日に何件もの家へと挨拶へ向かわされていた世良は、慣れない『仕事』に対する気疲れで、夕暮れにはくたくたになっており、家に帰ればすぐに眠りこけてしまう日々だったのだ。
何も言わずに顔を出さなくなった事が気がかりではあったものの、母親や悠月が、汐の家へ弁当を持って行ってやっている姿は見かけていた。汐が自分の事を気に掛けてくれているのかどうかは分からないが、世良の状況は知られているはず。
出来れば、彼の口から「会いたい」なんて言葉が聞ければ嬉しいのだけれど、可能性は低いだろう。今は、決して自分の意思で汐の元を訪れないようにしている訳ではない、と言う事さえ知っていてもらえればそれで良い。
「まあ、今日で最後だからな」
暫く黙りこくっていた父親の声が、脳内で鮮明に響いた。
「年末の挨拶は、さっき挨拶をした大名様が最後だ」
念を押すように告げた父親は、ゆっくりと酒を喉へと流し込んだ。
だから何だ、との文句は出て来ない。
世良は注がれそうになった酒を断り、立ち上がった。
「……行って来る」
「ああ。大晦日はゆっくりして来い。あと、正月も帰って来なくて良いからな」
「正月の挨拶ん時はいらねぇってか?」
「正月は宿泊客の対応で追われるからなあ。志奈は帰って手伝えと言うだろうが、俺からすれば、お前は居ない方が良い。『次期当主』なんて話の種が傍に居れば、嫌でも話が長くなるだろう?」
「そうかよ」
この町では、誰も年末の挨拶回り等しない。父親が敢えて年末に挨拶を済ませるのは、正月になれば柳屋で自分が延々と挨拶を受ける立場になるからだ。年が明けてしまえば、大名や役人などの身分を持っている人への挨拶は、順番待ちと言う名目で半日以上の待ちぼうけを食らわされる。休む暇もない上に、他人の挨拶が終わるのを待ち続けるのは世良だって嫌だ。
故に、父親の代から始まった『柳屋恒例の年末挨拶回り』は、世良にとっては有難い行事であると言うべきだろう。
「じゃあまた、年明けにな。親父」
「ああ」
身を翻した世良は、そのまま父親に軽く手を振って食事処を出た。
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