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偉大な背中 其の二
薄っすらと地面に雪が張る年末。明日は大晦日だ。
煤払いの日は汐宅の大掃除に宛がう予定だったのだけれど、今は見事に崩れ去った予定に呆れ交じりの溜息をつく事しか出来ない。
「……汐さん、何してんだろ」
早く会いたい。
早く会って、彼を抱きしめたい。
白い息に溶け込んだ願いは、世良の足を速めた。
汐に話したい事が沢山ある。八割がたは父親への文句なのだけれど。仕事もせずにふらふらしているくそ餓鬼が、初めて必死に仕事をこなしたのだ。
給料でも貰っておけば良かったなと、今になって思う。自分で働き稼いだ金で、今度こそ汐に喜んで貰える贈り物をしたい。正月が明けたら父親に言及してみよう。
「汐さん……っ」
慌てて駆け入った汐の家。広がった光景は、土間に鎮座する桶の塔であった。そう言えば、前にもこの塔を呆然と眺めた事があったか。汐が何の目的でこれを建設しているのかは分からないが……、今はそんな事はどうでも良い。
「汐さんっ」
「んー? 世良? どうしたの、そんな慌てて」
開いた障子の先で、汐は半纏の上から厚手の着物を羽織り、火鉢の傍で暖を取って居る。まるで雪だるまのような格好に、世良は思わず呆れた笑みを零していた。
「いや。どうしたんっすか、その恰好……」
「寒ぃの。文句ある? あー……、マジでファンヒーターとかストーブの有難みが分かるわ。なんでこんなに寒いの。雪とか降ってんじゃねーよ、クソが。隙間風ヤベーし、土間はただの冷蔵庫だし……。ははっ。俺、そのうち家ん中で凍死すんじゃねーの。あー……、これ、本気で笑えねー。……死ぬ」
ごろんとその場に転がった汐は、「死ぬ死ぬ」と言いながらも元気そうである。
「元気そうで、良かったっす」
「……これが元気そうに見える?」
達磨のように転がったまま、汐は不機嫌に目を細めた。火鉢があるとは言え、どこからともなく吹いてくる隙間風は思わず身が震えるほどに冷たい。凍え死ぬと嘆く汐の気持ちも分かる。かと言って、世良にはこの男をここから連れ出す権利もない訳で……。
どうしたものかと小さく息を付きながら、火鉢を挟んだ正面へと腰を下ろした。
「世良」
「なんっすか?」
「……お前は、元気してたの。久しぶりだけど」
「元気っすよ」
「そう」
久しぶり、と世良の様子を伺って来る割には随分と素っ気ない口調であった。この男が家の中で社交辞令を発する訳がないので、世良の様子を気に掛けてくれた事は彼の本心だろう。正直、そんな些細な事で心浮かれてしまう自分は随分と安い人間だ。
「世良。こっち来なよ」
起き上がった汐は、自分の隣を掌で叩く。汐の傍に寄るだけで、そのまま襲い掛かりそうな自分が怖いのだが……。実際、彼の隣へと移動し始めた体は、ここに来る時とは比べ物にならないほどに重く、彼を襲う気力すら絞り出せそうにない。
「ここで良いっすか?」
「うん」
近日の疲れがのしかかる体。更に膝へと乗せられた重みは、何よりも愛おしいそれであった。世良の膝の上に乗った汐は、何事もないかのように世良の胸板へと背中を預けてくる。
「お前、あったかいね。これで凍え死なずに済みそう」
「……そう、っすか」
彼の腹へと回した腕は、その細い指先に優しく掴まれた。まるで世良の腕を抱きしめるような彼の所作に、腕の力が強まった事は言うまでもない。
「世良、正月はどうすんの?」
「帰ってくんなって言われた。だから、汐さんと一緒に過ごしたい」
「次期当主様なのに? それで良いの?」
「なんか、俺が居ると逆に面倒らしいっす」
「……そう。相変わらず甘やかされてんね」
「あんたは……、甘やかしてくれないっすけど」
「バーカ。疲れたクソ餓鬼のために、抱き枕になって癒してやってんじゃん。汐君の心遣いに感謝するべき場面だと思うけどね、今は」
彼の肩に預けた頭をくしゃくしゃと撫でられる。細い指先の感覚がこそばゆくて、それでももっと彼に触れて居て欲しくて。まるで親に縋りつく子供のように彼をぎゅっと抱き寄せながら、世良は小さく礼を告げた。
「それで? どうだったの、挨拶回り」
「なんか……、色んな家に行かされて」
「うん」
「疲れ、ました……」
「そう」
彼の短くも穏やかな相槌が、話を聞きながらも優しく頭を撫でてくれる所作が、何よりも愛おしくて世良の心を落ち着かせてくれる。父親の隣に並ばなくてはと張っていた虚勢ががらがらと崩れ落ち、中に埋もれていた自分がやっと空気を吸えたような、そんな安堵が全身に広がっていく気がした。
「大名のとことか……、まじで、心臓飛び出そうなくらい緊張して、」
「ふーん」
「でも、親父は……、すげー、堂々として、て……」
「へぇ」
とめどなく込み上げる安堵は、共に休息を欲した体と思考を沈ませていく。まだまだ話したい事は沢山あるのに、頭が上手く動かない。ずるりと彼を抱きしめる腕が落ちる度にまた持ち上げて、世良は必死に意識をこの身に止めようとしていた。
「やっぱ……、あの人、すげー、んだなって……」
「そうだろうね」
せっかく、こうして汐が話しを聞いてくれているのに。
せっかく、汐と一緒に居られるのに。
疲れ切った体は、彼から与えられる安堵の中で眠りを欲し、少しづつ瞼に重みを増やしていく。
「……汐さ、ん。俺、……ずっと、あんたに……、会いたくて、……抱きしめ、たくて……」
「そう」
「俺がちゃんと……、当主に、なれたら……、あんたを、……連れ、て、」
すとんと落ちた腕を持ち上げられず、耳元で囁かれた「おやすみ」の声を合図に、世良はゆっくりと微睡の中に沈んでいったのである。
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