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第3話
日も高くなってから目覚めた貞之は、枕元に甘蔓を練って固めた菓子が置かれているのに気付いた。
この家の者がそんな気の利いたものを置いていくはずがない。昨夜の乱暴者が夜伽の代価として置いていったものだろう。なんと人を馬鹿にした振る舞いだろうか。
捨ててしまいたかったが、喉が枯れてどうしようもなかったので口に含む。甘みが口の中にじんわりと染み入り、荒れた喉が潤った。貞之の身分では滅多と口に入らない、上等な菓子だ。
体の上には、今朝は単衣でなく男の袿が掛けられていた。貞之には一周り大きく、染めも織りもずいぶん凝った品物だった。これを辿って行けば、きっと男の素性に行きつくのだろう。探せ、と言っているのかもしれない。だが、何もかも忘れてしまいたいのが本音だった。
ゆっくりと体を起こしてみると、無理を強いられた割には、昨日一昨日に比べ身体は幾分軽かった。しつこい風病がやっと憑りつくのを諦めて去って行こうとしているらしい。
簡単に身支度を整えると、貞之は供も着けずに徒歩で友人の屋敷へと向かった。身分も財産もほとんどない貧乏公家だが、気のいい男だから頼めば泊めてくれるだろう。この六条の父の屋敷とは比べ物にもならないあばら家でも、ここよりずっと居心地が良かった。
方違えだと告げれば、友は真偽を問うこともなく快く部屋を貸してくれた。貞之はそれから三日の間友の館で養生し、四日目には職務に復帰して実家に戻った。
それからさらにひと月あまりは平穏で、貞之は己の身に起こった出来事を極力忘れようと努めた。
妹姫の婚姻がどのようになったかはもとより知らされる立場にない。
眠る前には掛け金をしっかり確認し、几帳で周囲を囲むようにして休むようになったことだけが、些細な日常の変化だった。
長く居座った晩秋が過ぎて雪がちらつく頃、貞之の部屋を訪れるものがあった。同じ屋敷にいながらほとんど顔を合わせることもなかった父だ。
時折宇治の館を訪れていた頃にはこの男を父と呼び、父もまた貞之を息子と呼んで、母ともども大事にしてくれたものだ。だが、六条の屋敷に引き取られた際に、ここでは父ではなく中納言と呼ぶよう求められた。これから先は肉親として扱わぬという宣告だった。
鄙で育った自分が恥ずかしいのかもしれない。京風の習慣に馴染み身を立てることができれば、いつかは認めてもらえるかと努力した時期もあったが、今ではもう主と家人のような関係になってしまっている。数年ぶりに父と対面しても、どう振舞えばいいのか分からないのが正直なところだった。それはきっと父の方も同様だったのだろう。
「――三日後に、我が屋敷で宴を開くことになったのです」
他人同士のような時候の挨拶の後、父はそう口を開いた。
「貴方は横笛を吹かれることになるので、練習しておかれなさい。笛と装束はあとで下男が届けるでしょう」
「中納言さま、お待ちください!……私は笛は……」
あまりにも突然の命令に、貞之は困惑の声を上げた。笛は母を慰めるためにしか吹いたことがない。人前で披露するような腕前でないことは、父も分かっているはずだ。それなのに――。
「……」
父は何か言いたそうに貞之をしばらく見つめたが、結局何も言わずに去ってしまった。追いかけることもできずに、貞之は遠ざかる背を見送るしかなかった。
貞之がこれまでこの屋敷で開かれる宴に同席したことは一度もなかった。そのような間柄だとは誰からも認められていない。父にとって何か不本意な事情があったのだろう。後から届けられた笛と衣装は、貞之には分不相応なほど見事なものだった。
笛を見つめて、貞之は重いため息をついた。宇治にいた頃は、琴の名手でもあった母の無聊を慰めるため、さまざまな曲を習い覚えたものだが、そんな生活はもう何年も前の事だ。この屋敷についてからは一度も笛には触れていない。きっと中納言は貞之が何を吹けるのかさえ知りはしないだろう。
この突然の命令が、今更自分を一族として認めるためだと考えられるほど、貞之は世間知らずでも楽観的でもなかった。闇の中に浮かび上がる白い顔がふと脳裏をよぎったが、だからといって拒むことも逃げることもできはしない。できるのは、晒し者になるのを覚悟で拙い笛を披露することだけだった。
――結局、宴の席で貞之は一曲を奏でた。
笛に触れたのも数年ぶりであったし、練習を重ねるための日数もなかったので、客観的に評価してもぎりぎり恥をかかない程度の演奏だった。だが、宴の翌日再び部屋を訪れた中納言は貞之の笛を誉め、貴人の屋敷へ笛を吹きに赴くようにと命じた。
宴の出席者の一人が貞之の笛に非常な感銘を受け、ぜひ屋敷で合奏したいとの申し出があったとの由だ。飾り立てたその言葉を聞き終わるより前に、貞之は父の表情を見て全てを察した。
「当家にとっても大切な、やんごとないご身分のお方なのです。ゆめゆめ粗相のないようお心掛けなさるように」
告げる父の声は、感情を失ったように平坦だった。
迎えの牛車に乗り込み、向かった先は六条の屋敷より御所寄りだった。
相手が誰かということは告げられていない。だが、このあたりに住まう身分の者ならば、六条中納言家にとっては機嫌を取っておくべき相手には違いない。
教えられた作法通りに挨拶を交わし、寝殿造りの母屋の奥へと導かれる。六条の屋敷は広くて豪勢だと思っていたが、この屋敷はさらに広く、庭の手入れも行き届いていた。
笛の合奏と言いながら、中門廊から続く道筋はひっそりとしていて、女房の気配も乏しい。屋敷の壮麗さに比べると人の気配がなさ過ぎて、どこか寂しい雰囲気があった。
対面の間らしき部屋に案内されたが、御簾の向こうにはまだ誰もいない。先に酒肴の用意がなされ、家人が辞した後一人残されても、この館の主人はまだ現れなかった。
肴は冷めて食するものばかりで、酒も多めに置かれている。これ以降給仕をするものは現れないということだろう。持参した笛を横に置いて、貞之は重い吐息をついた。どうせそうだろうと覚悟はしていたものの、やはり笛の合奏などというのは口実に過ぎない。
「……気が乗らぬ様子だな」
ちょうど、その刹那――御簾をくぐって屋敷の主が現れた。
なかば予想していた通り、それはひと月ほど前に臥せていた貞之を夜這いした、あの男だった。
灯りの下でみると、いよいよ美々しい公達だ。滑らかな白い肌と、黒々とした切れ長の眸を持ち、背は高く身ごなしはすっきりしていながら、所作には優雅さを感じさせる。直衣は今様の裏地を透けさせた地模様入りで、大胆な図柄が意外に品よく見えるのは色の取り合わせが良いからだろう。堂々たる貴公子だった。
「私のような拙い者をお招きくださり、身に余る思いです」
貞之は落ち着いた声で口上を述べると、深く頭を下げた。どうせ逆らうことの出来ぬ相手なのだから、今更張る虚勢もない。
男は音も立てぬように静かに上座に座すと、ゆるりと笑みを浮かべた。
「平素はそのような声であられたか。熱に掠れた声も大層良かったが、今も十分魅惑的な声をなさっておられる」
かつての邂逅を思い出させるようにそう言うと、貞之がどういう反応を示すかと凝視してきた。少しは機嫌を取らねばと頭の片隅で思ったが、今更驚いて見せたり腹にもない愛想を振り撒けるほど世間にすれてもいない。本心では男色狂いの痴れものめと罵って、笛を投げつけ席を後にしたい気持ちでいっぱいだった。
「……三日夜を通うと言っておきながら、ついに三日目訪れなかったことをお怒りか……?」
貞之の沈黙をどう受け取ったのか、幾分こちらを窺うような声音で尋ねてくるのに、貞之は胸の内で失笑を漏らした。
女ならば不実を詰ったかもしれないが、貞之は男だ。それに身分も違いすぎる。この男は後朝めいた文を寄越したのかもしれないが、それが届いたことすら貞之は知らされていない。
「出かけようという直前になって病を得てしまって、文一つ送ることができなかった。熱に浮かされながら、苦しんでいた貴方にひどい仕打ちをしたものだとずっと後悔していた」
男の言葉は、貞之には今更の繰り言にしか思えなかった。けれど相手は身分高い公達だ。貞之は手をついて頭を下げた。
「……申し訳ございませぬ。風病を患っていると、あの時はっきり申し上げるべきでした」
「いや。貴方が病を得て熱に苦しんでいるのは、初めの時から分かっていたのだ。分かっていて無体を強いたのだから、当然受けるべき仏罰であったのだろう」
熱で苦しんだと言う割には、どこか得心したような、清々しささえ感じさせる声だった。
「私は一昨年妻を亡くしてね。病がちの方だったが、とても愛らしく素晴らしい方だった。……それなのに私は、最後の数年はほとんどあの方に触れていない。熱を出して寝込んでおられる姿が何やら恐ろしくて、碌にお顔も見ぬままお一人で逝かせてしまった。そのことが悔やまれてならないのだよ」
何と答えて良いか分からず、貞之は床に目を落とした。
熱のある病人に近づきたくないのは世の道理だ。だが、病に苦しんでいる時だからこそ、人の温もりが一層恋しく寂しさが募ることも貞之は知っていた。男も、自分自身が熱に浮かされてそれを知ったのだろう。
――だが、男の過去に思いをはせるのはそこまでだった。
不意に立ちあがった男が、無言のまま貞之の手を取り、立つよう促してきた。逃げられぬよう背を支えられて奥へ進む。衝立で仕切られた奥には畳が敷かれ、寝所が設えられてあった。
「……悪いようにはせぬ」
背の高い男が身を屈めて、貞之の耳元に囁いた。
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