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第5話

 体の上に袿を掛けられた感触で、貞之は意識を取り戻した。  頭の芯がぼんやりして、全身がとにかく怠い。  灯りが一つ残されていたので、寝所の様子がおぼろに見えた。自分の部屋ではない、もっと身分が高い者の贅沢な室だった。 「大事ないか?」  背後から労わるような深く優しい声がした。泣いたせいで瞼が重く、喉はからからに乾いている。腰から下が重だるく、後孔にはまだ何か含んだような違和感があった。傷ついてはいないが、肉体がすっかり己のものではなくなってしまったような感じがした。  どれほどの間意識を飛ばしていたのだろう。辺りは静かで虫の声も聞こえなかった。それほど長く眠ったわけではなさそうだ。  貞之は意を決して肘を突くと、上体を持ち上げた。背後には裸の肩に袿をかけただけの男が共臥しており、案じるようにこちらを見上げている。男のものらしい単衣を掻き寄せて居住まいを正すと、貞之は夜具の上にそっと手をついて平伏した。 「……まだ夜は長い。もう少し休んでいかれなさい」  退出の気配を察して、男が床についた手をとってきた。最中の激した様子とは打って変わって、穏やかで慈悲深い声だった。 「……いいえ、明るくなってからでは、貴方さまにご迷惑がかかりますので」 「どのような噂を立てられたとしても、私は困らないよ」  男はそう言ったが、情事の後は誰にも姿を見られぬよう、暗闇の内に辞すのが作法だ。 「出仕の支度がありますので」  そっけない断り文句だとは思ったが、他に口実が見つけられなかった。男が誰かは知らないが、貞之の仕事など男の身分からすれば吹けば飛ぶほどささやかなものに違いない。それでも他に使える口実はなかった。 「では……貴方の名を、教えてくれまいか」  手を握ったまま、男が問うてきた。答えなければ離さないとでも言うつもりだろうか。  そう言えば互いに名さえ知らぬままだったのだと、貞之は胸の内で苦く笑った。 「貞之と申します」  あえて氏は名乗らなかった。藤原姓を名乗れば出自を詮索される。六条の藤原家に一室を得ながら、まるで舎人のような扱いなのは何ゆえかと、さらにいらぬ興味を抱かれるのも煩わしい。  男は貞之が氏を名乗らぬのを不思議そうにはしたが、気持ちの折り合いをつけたのだろう。手を解放してくれた。 「私の名は頼房だ」  男も貞之に合わせて氏は名乗らなかった。貞之は一礼し、帰り支度のための衣服を身につけようとした。手元にあるのは、頼房が掛けてくれたらしい彼の単衣だけだ。身に着けてきたものは頼房の体の下に敷かれている。  男が女と初めて枕を交わした夜は、香が残る単衣を互いに交換して置いていくものだが、果たして頼房は身体の下の単衣が自分のものではないと知っているのだろうか。  貞之は取り返すのを諦めて、黙って少し丈の大きい男の単衣を身につけた。もうすっかり覚えてしまった香が仄かに匂って、まるで男の肌と今も密着しているかのようだ。 「明日の夜もいらっしゃい。六条の屋敷に迎えをやるから」  その申し出を、どうやって断ろうかという困惑が見えたのだろう。男は言葉を継いだ。 「辛ければ、明日は語らい合って添い伏すだけでもよいから。来ると言わねば帰さぬよ」  脅しにしてはずいぶんと真摯で優しい口調だった。  貞之は首肯し、男の寝所を後にした。  牛車に送られて六条の屋敷に戻った貞之は、住まいしている西の対の屋の様子が常とは違うことに気がついた。――人の気配が感じられず、灯りもない。  おかしいとは思いながらも、月明かりを頼りに部屋に着いた貞之は、思わず息を呑んだ。格子戸が全て壊され、掛け金を失っている。中を覗き込むと、部屋の中は一層惨憺たる有様だった。几帳が引き倒され、床には唐櫃の中身が散乱している。足を踏み入れると床といわず畳といわず泥水が撒き散らされ、身を休めるための場所も残されていない。束帯や直衣もほとんどが泥に汚れ、千々に割かれた文と漢籍が辺りにばら撒かれていた。  あまりの惨状に、どのくらいの間呆然とそこに座り込んでいただろう。やがて東の空が白み、冬の夜が明け始めた。本来ならばもう疾うに出仕の支度をしていなければならない時刻だ。だが朝服のことごとくが使いものにならないし、必要な道具も散乱している。これでは宮中に赴くことはできなかった。  これが今日一日のことならば、物忌みや方違えだと言い訳して休むことはできる。だが失ったものを新たに用意するには、一日や二日ではどうにもならない。――明日は、その次は、いったいなんと言い訳すればよいのか。  床に散らされた文は、どうやら妹姫のところに届いた後朝の歌らしかった。ぐしゃぐしゃに捩られ、原形もとどめず破かれた上に水を吸っている。元の文面は見当もつかないが、優美な手蹟だった。――突然、胸に言いようのない虚しさがこみ上げてきた。  貞之は父の意に沿うために、耐えてあの屋敷に赴いた。望んで向かったのではない。けれどそれは、東の対の屋に住まう者たちにとっては許し難い所業だったのだろう。  巻き添えを恐れてか、西の対の屋にいるはずの女房や下男も一人もいなくなっていた。どこか他所の房で息を殺しているのに違いない。この屋敷には貞之を守る者も庇うものも、親しく語らうものも、……存在を受け入れてくれるものもいない。  今ここで己が消えたとしても、それを悲しむ者もいないのだ。  ここへは、もとから来るべきではなかった。宇治のあの侘しい館で、母の面影だけを胸に、ひっそりと生きて居ればよかったのに……。  貞之は重い身体を叱咤して立ちあがると、いくつかの漢籍を拾いあげた。先日世話になった友に、僅かばかりの礼でもしたい。『京を去るが、心配してくれるな』と文の一つも残したかったが、生憎硯箱も見当たらない。捨てられたのかもしれなかった。  路銀になりそうないくつかの品を包むと、貞之は誰にも告げずに六条の屋敷の門をくぐりでた。

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