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第6話

 式部卿に在籍する大江匡光は、明日から物忌みのため出仕できないことを同僚に告げ、家路を急いでいた。  同僚で友人であった藤原貞之が突然姿を消して十日になる。  貞之が京から消えた日、匡光が帰宅すると家人が貞之からの荷を預かっていた。いつぞやの礼のつもりなのか、漢籍がいくつか包まれている。文一つ添えられていなかったので、今度出仕したときにでも礼を言おうと思っていたのだが、以来姿を見せない。よくよく家人に問うてみると、これを届けたのは貞之本人で、しかも京を出るとの言伝てがあったらしい。  さっぱり訳が分からないので六条の屋敷を尋ねてみたが、舎人にしてからが、ここにはそのような者はいないの一点張りだ。無論部屋に通してくれるはずもない。夜になって庭から忍び込んでみれば、貞之の部屋があったはずの西の対の屋の一角が、打ち捨てられたように無人になっていた。驚いて翌日上席に確認してみれば、貞之は欠勤どころか除籍となっていた。  ――よほどのことでもあったか。  考えても考えても腑に落ちなかった。京を出るほどの何かがあったなら、自分にくらいは相談してくれていたはずだ。貞之から届いた漢籍の間には文の切れ端らしきものが挟まっていたが、何やら濡れて汚れておりとても読めたものではなかった。まさかどこぞの姫君に懸想した挙句、世を儚んで出家でもしたというのだろうか。――いや、どちらかと言えば奥手で朴念仁な貞之に、そんな色めいた事情があるとは想像しがたい。  数日悩み抜いた匡光は、腹を括って貞之の行方を捜すことにした。そう宛てがあるわけでもないが、京におらぬのならば、幼少の折に住んでいたと聞く宇治以外に伝手はなかろう。懇意にしていた寺の名を聞いたことがあるので、まずはそこに行ってみることにした。  季節は厳しい冬へと向かっている。宇治の辺りは京よりも早く雪が降り始めるやもしれない。先延ばしにしては身動きが取れなくなってしまう。匡光は明日の早朝にも宇治に向けて出発すべしと、家路を急いでいた。  八条の端に位置する匡光の屋敷は、友人たちの間ではあばら家として有名だ。  古いうえ、修繕しようにも金がないので、使える部屋の方が少ない。その屋敷に匡光が帰りつくと、いかにも場違いな立派な牛車が門の中に入れられていた。  見れば舎人たちの身なりも整った、明らかに公卿の乗り物である。唖然とする匡光に、主人の帰宅を知った家人が中から慌てて飛び出してきた。  聞けば、この屋敷の前で牛の具合が悪くなったという公卿があり、ひと時の休息場所を求められたそうだ。主の帰宅を待っている場合でもないと恐縮しきりに部屋に通したものの、それほどの貴人をどう扱えばよいのか分からず、困り果てているとのことだった。  匡光とて殿上人に挨拶したことなど数えるほどしかない。しかも宇治への旅支度をしたい今日に限って面倒なと、煩わしさが先に立ったが、挨拶をせぬわけにもいかなかった。幸い牛車の牛は見たところ変わった様子はなかったので、もう回復したのだろう。もてなしの菓子を出すような蓄えもない。早々にお帰りいただくべし、と足を速める。  客用の部屋に入ると、この古家にはいかにも不釣り合いな公達が、優雅な様子で古びた脇息に凭れかかっていた。扇で顔を隠してはいるが、有文の直衣からして、かなり位の高い公卿には違いない。匡光の帰宅を知って、客人が幾分居住まいを正した。 「……期せぬ難儀に遭われたとか。このような賤家ではもてなしも行き届きませず、恐れ多いことにございます」  畏まって口上を述べた匡光を、男は扇の向こうから凝視して、口を開いた。 「冬を逃れた渡り鳥の気配に、牛の足も誘われたのかもしれません。……主の私がそれを探し求めているものですから」  まだ若く、しかし堂々とした声音だった。  匡光はしばらく黙考した後、顔をあげて公達の様子を窺った。  殿上人の姿かたちなどを、匡光とてそう何人も見知っているわけではない。牛車や直衣のありようから三位以上の身分であることは明らかだが、それにしては声が若い。これほど若くして高位につく男を、匡光は一人しか思いうかべることができなかった。  ――先の帝の弟であり、年若い今上帝の後見役でもある、先の摂政太政大臣。源頼房その人だ。  かの貴公子は幼少時に臣籍に下ったものの、広く漢学に通じ、先の帝が崩御された際には今上帝の後見として太政大臣に上った。だが、数年前に妻を亡くして以降は冠位を返上し、今は今上帝の相談役として、半ば隠遁の生活を送っているはずだ。  いや、思い当たる貴人が彼の人だけであるからといって、その人物が今この傾きそうな部屋で休んでいる公卿であるとは到底信じがたかった。本来ならば匡光が対面したり直答を許されるような身分の相手ではない。  言葉も出せずに無言でいる匡光をどう思ったか、公達が扇を心持ち下げた。 「私のもとを飛び去った鳥が、こちらで翼を休めているとか。もう一度、声を聞きたいと思っているのですが……」  公達の仄めかしは、匡光には全く思い当たるところがないものだった。 「あいにくと我が家にはどのような鳥も立ち寄ってはおりませぬ。見ての通りのあばら家で、鳥を養うような余裕もない、まことに恥ずかしい有様ですから」  匡光の答えを聞いて、公達の視線が険しくなった。  音を立てて扇を閉じると、脇息から身体を離して座り直す。 「貴方のところにおられぬならば、いったい貞之殿はどちらにおられるのか」  不意に飛び出た友の名に、匡光は顎が落ちるほど驚いた。礼儀も忘れてまじまじと凝視する匡光に、公卿は苛立ちを隠しもせず、露わになった秀麗なその面を軽く背けた。  唐突に、匡光は懐にしまってあった文の切れ端を思い出した。破かれた上に水に濡れて、何を書いてあるのかはまったく分からないが、料紙の感じからして恋文ではないかと思っていたあの紙片だ。  匡光はそれを取り出し、公卿の前に示して見せた。  冷たいほどに整った公卿の顔に動揺が走った。 「十日前、貞之が私の元に持ってきた漢籍の間に紛れておりました。意を質そうにもそれ以来会うことができず、先日六条の屋敷を訪ねたところ、彼が起居していた部屋は格子戸が壊され、泥水を撒かれた跡が残っておりました」  匡光の言葉を聞くうちに、綾織の直衣に包まれた肩が激しい感情を抑えるようにゆっくりと上下しだした。人違いでも何でもなく、この先の太政大臣と六位に過ぎない友人は、何らかの関わりを持っていたようだ。匡光は言葉を重ねた。 「私どもの上席に宛てて貞之の除籍が届けられておりました。六条の屋敷に居られぬようになり、京を離れたものと推測しております」  扇を持つ手が震えていた。  公卿は動揺激しい己を隠すように、震える手で扇を広げ口元を隠した。 「……あの方には……京を離れて行くあてなどあられるのか……」  言葉にされずとも、この公卿が思い描いた懸念を、匡光は察した。世を儚んで身投げでもしたのではないかと案じたのだろう。それは匡光も考えないでもなかった。  だが、友誼の礼にと漢籍を届けるほどの理性が残っているのなら、そう早まったことはすまい。何より鄙育ちの貞之は結構打たれ強い性格をしている。 「幼少の折、宇治に住まいしていたと聞き及んでおります。既に親類も誰もおらぬと聞いておりますが、懇意にしていた寺があると以前申しておりましたので、明日にもそこを訪ねてみようと準備しておりました」  宇治は遠く、京よりも雪深い。  寺の所在も確と分かっているわけではなかったが、それより他に思い当たるところはないのだ。人に尋ねながら探しあて、寺とその近辺を探しても見つからなかったその時には、諦めるより他ない。だが訊ねていくこともせずに、このまま知らぬふりをして忘れることは、匡光にはできなかった。 「……大江殿」  不意に口調を改めて、公卿が口を開いた。 「私の名は源頼房という。今は公には朝廷を離れているが、さりとて何か融通できることもあろう。必ず京に戻ってくるよう、行って貞之殿を説き伏せていただきたい」  公卿が名乗った。うすうす勘づいてはいたが、改めて名を聞くと床についた手が畏れで震える。お上の後見人という、まさしく雲の上の人間だ。その口から友の名が出るのが不思議なほどだった。 「宇治までは当家の車を使われよ。夜明けまでに用意して、随身とともにこちらの屋敷に向かわせる。宇治までは遠路となる故、貴方は身体を休められるがよい」  有無を言わせぬ響きだった。  匡光が首肯すると、頼房は上座から立ちあがった。後は後ろもみずに回廊を渡っていく。その足音が遠ざかるまで、匡光は面を上げずに身を縮めていた。  

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