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第7話
陽が落ちて、夕の勤行も終わった。
僧侶と同じ薄い粥を腹に収めると、貞之は与えられた一室に落ち着いた。
京から丸一昼夜かけて辿り着いた宇治では、思った通り、貞之が幼少を過ごした屋敷も荒れ果て、とても人が住める状態ではなかった。庭には丈の高い草がはびこり、長年の留守のうちに調度のほとんどが盗まれ消えている。貞之は懇意にしていた寺に挨拶に出向いたそのまま、住職の好意に甘えて寺でこの冬を越す許しを得た。
客分とは言いながら、実質はほとんど僧侶と同じような生活である。得度してはどうかとの勧めもあったが、仏に仕える日々を送りながらも、未練を断ち切れぬ貞之の心はすぐに京へと飛んでしまう。
母を亡くしてこの宇治を出る時、貞之は父の元に迎えられることをただ喜んだ。年に数度しか会えなかった父と、これからはずっと一緒にいられるのだと。
だが京に行った貞之は、遠く離れていたからこそ心が通じているように感じることができたのだと知った。同じ屋敷の中にいながら、父と呼ぶことも許されず、顔を合わせることもない。花の宴があっても祝い事があっても、それがあることを気配で知りながら、決して呼ばれることはない。それは遠く離れた宇治で父を恋しがっている時よりも、余程辛く寂しい事だった。
人との距離の遠さは身内ばかりに限ったことでもなかった。京というところは大勢の人がおりながら、心を通い合わせることがよほど難しいところだ。上辺だけの交友の裏で、誰も彼もが他人を蹴落とし、一つでも良い官職を握ろうと躍起になっている。そうでないのは学者肌で偏屈な、貧乏公家の友人くらいだった。
それをよくよく知りながらも、静まり返った寺の夜を独りで過ごしていると、懐かしさばかりが募ってくる。そんなはずはないと分かっているのに、父が少しは自分の身を案じて、消息を問う文の一通でも送ってくるのではないかという期待を捨てきれなくて、所縁のあるこの寺から離れられずにいるのだ。
ぼんやりと経典を眺めていた貞之は、聞こえるはずもない馬や牛車の音がしたように思えて顔を上げた。が、耳を澄ませると音は聞こえなくなった。京を恋しがるあまり空耳まで聞こえたのかもしれない。
文机の前で改めて経典を開く。進むべき道を知るための一助となればと、住職が与えてくれたものだ。なかなか頭に入ってこないそれを眺めていると、思いもかけない来客が告げられた。現れたのは匡光だった。
「貞之……!」
「匡光……」
京にいるはずの友は、痩せた手を寒さに擦りながら入ってきた。続いて、僧侶たちの手で部屋に火鉢と酒が持ち込まれた。
寒くなっては来ているが、今はまだ冬の入口だ。年が明ければ腰まで雪が積もり、寒さもいよいよ厳しくなる。長い冬に備えて、この寺ではまだ火鉢などは出していなかった。懐の厳しい匡光が寺に寄進できるはずもない。いったいどうしたことか。
遠方からの友は何も語らず、火鉢を囲んで黙って酒瓶を傾ける。貞之の盃にも惜しみなく、なみなみと注いでくれた。
「……わざわざ、宇治まで探しにきてくれたのか」
口に含んでみれば、味わいのある旨い酒だった。鼻の奥がツンと痛んだのは、酒のせいではあるまい。どこへ行くとも告げなかったのに、昔語りを頼りに探しに来てくれた友の情け深さが、酒以上に心に沁みた。
「納得できなかったからな。言えぬ事情もあったのだろうが、それほど浅い付き合いではないつもりであったから」
匡光が肉付きの薄い手を火鉢の上で擦る。貞之も溢れそうなものを堪えるために同じように手を擦った。
「それに、私以外にもうお一人、貴方の行方を捜すお方がおられてな」
匡光が懐から立文を取り出した。
密かに待ち望んでいた父からの手紙だとはじめは思った。だが中から現れた料紙は目にも鮮やかな紅色で、手の込んだ透かし模様まで入っている。色めいたその料紙は、父からのものではない。
戸惑いながらも中を開けば、そこにあったのは見事な手蹟で記された恋歌だった。
――次の夜も花を咲かせると誓った椿の枝が、匂いだけを残して消えてしまった。我が家の庭には貴方のための場所も空けてあるのに、今はどのあたりで咲いているのか。枝を折っていったものが恨めしいことだ――。
「先の摂政太政大臣さまと、文のやり取りでもあったのか」
咳払いをしながら、匡光が居心地悪そうに問うた。文面が見えなくとも、風情ある畳み方や艶っぽい料紙の色で、ただの文でないことは察せられる。
「源頼房さまが我が家を訪れて、京に戻ってくるよう貴方を説き伏せよと仰せだ。肝が冷えたぞ」
先の摂政太政大臣――。貞之はぽかんと口を開けた。
匡光は今、あの乱暴で身勝手な男が先の摂政太政大臣、源頼房だと言ったのか。身分の途方もなさにとても現実味が持てない。公卿だろうとは思っていたが、今上帝の叔父にあたるような血筋の方とまさか同衾したとは、想像できる範囲を超えていた。
何があったと、匡光は尋ねなかった。頼房が屋敷に現れたことで、彼も驚きすぎて思考が停止してしまったのかもしれない。匡光は、源家の豪華な網代車や馬に乗った随身たちの凛々しいこと、寺に寄進すべしと頼房が持たせた大量の炭や米が住職を驚かせたことなどをひとしきり楽しげに語らうと、疲れた様子で火鉢に背中を温めたまま眠ってしまった。
貞之は深い息を吐き、首元からそっと単衣の襟を触った。
着の身着のままで飛び出してきたので、単衣は頼房のものだ。焚き物の残り香はもうなかったが、襟の綾織に触れると激しく求められた最後の夜が思い出された。あの強引な男が先の太政大臣などという雲の上の存在であったとは。そして、父すらも便りをくれぬ貞之に『戻れ』と手を差し伸べてくれたのが、袖振り合うほどの縁しか持たぬはずの頼房の方だったとは。
正直なところ、誰かに戻って来いと言って貰えたのは嬉しかった。寺で厄介になっているのも気づまりで、さりとて身を立てるだけの力もない。だが京に戻って頼房のもとへ迎えられても、さしたる取柄もない自分の事だから、いつかは疎まれ邪魔にされるだろう。そう考えるととても耐えられそうにはなかった。そんなことは、父の屋敷に迎えられた時の経験だけでもう十分だった。
翌朝、出立前に匡光はもう一度貞之を誘った。頼房のところも六条の屋敷も敷居が高かろう、八条の古家にも部屋の一つくらい余裕があるぞと。けれどそれは匡光にとっては負担でしかない。欲得なしに言ってくれる友の友誼に応えるならば、その申し出を受けないことが貞之が示せる唯一の誠だった。
心遣いに深く感謝しつつ、貞之は頼房宛てに文を預け、京へと戻っていく友の背中を見送った。
――宇治川の流れは速くて、数ならぬこの身ではとても渡りきることができそうにありません。愛でてくださるお心は嬉しくても、花にはそれぞれ咲くべき場所というものがあるのでしょう――
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