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第8話
匡光が帰京した翌日からはたいそうな雪が降った。
宇治のあたりでは雪はさほど珍しくない。今はまだ昼の光を浴びて解けつつあるが、もう少し季節が進むと根雪が残って水を汲みに行くのも大変になる。年を超すための様々な準備を、今のうちに進めておかねばならなかった。
藁の束を運ぶために表に出た貞之は、十騎ばかりの美々しい騎馬集団を見かけた。馬の太く長い首には美麗な装身具がつけられ、それに跨る男たちも背に弓を背負い腰には太刀を佩いている。まるで匡光が語った源家の随身たちのようだと思いながら見とれていた貞之は、その一団が寺の前で足をとめ、下馬していくのを見た。
まさかと思いながら一団を眺めていると、一人の貴人が風よけの被きものを供周りに預け、寺の門をくぐる姿が見えた。深靴で雪を踏みしめた長身の貴族は、汚れ一つない雪色の狩衣を身にまとった頼房その人だった。
明るい光の下で見る彼は一層美しく、まるで神仏のようにさえ見える。
頼房は庭に立っているのが貞之と知ると、手を差し出して艶やかな笑みを浮かべた。
「ともに宇治の河を渡らんとて、迎えに参った。さあ、我が手をとりたもう」
先日の匡光に引き続き、冬を越すためのさまざまな荷を抱えてきた一団に、寺の中は大騒ぎになった。頼房の素性を知らなくとも、軽々しい身分の相手でないことは誰の目にもわかる。
恐縮しきりの様子で住職が挨拶を交わす間に再び空模様が悪くなり、一行が京にとって返すには不向きな天候となった。貞之はまだ、ともに京へ帰るとも寺に残るとも決めかねており、頼房は寺に一夜の宿りを求めた。
さして大きくはない鄙の寺である。宿坊の中では貞之に与えられたのが最も良い部屋であったので、貞之はそれを頼房に譲ろうとしたのだが、普段の倍近い人数が泊まることになったためそもそも部屋がない。結局頼房の強い要望もあって二人は同じ部屋でやすむこととなった。
今回も寄進として大量の炭や保存食が持ち込まれた。毎年冬を越すのに苦労する寺では思わぬ仏の恵みだ。匡光の時と同じく部屋には火鉢が運ばれ、酒も届いた。頼房はあちこち穴の開いた板の間にも特段動じた様子はなかったが、身分から考えればこのような粗末な部屋で過ごすのは初めての経験だろう。貞之はいたたまれなくなった。
意地を張らずに匡光とともに京に戻り、挨拶して礼でも述べておくべきだったのだろうか。そうすれば、頼房を隙間風の吹き込む宿坊に泊まらせずに済んだだろうに。
緊張に俯きがちの貞之を、頼房は酒を片手に目で楽しんだ。
「今宵はまたずいぶんと他人行儀であられる。もはや私のことなどお忘れになられたかな」
距離を空けて座った貞之を、頼房は揶揄う。笑いを含んだ声は酔いもあってか上機嫌だった。
「宇治は寒さが堪えるな。年甲斐もなくやってきた私を哀れと思うなら、隣に座って温めてはくれぬか」
おどけた言い方は、貞之の緊張を解きほぐそうと意図したのかもしれなかった。
年甲斐もなく、と頼房は言ったが、衰えなど少しも見えない今が盛りの男振りだ。公卿の中では一番若いくらいかもしれない。
「……大臣はまだ十分お若くていらっしゃいます」
「だが、貴方の父であってもおかしくない年齢ではある」
腕が伸び、貞之の身体を引き寄せた。
頼房がそうすると決めたとき、誰もそれに逆らうことはできない。身分を明らかにしなくとも、頼房には人を従わせるだけの力があった。
「……貴方が髪を下ろされたのではないかと、気が気ではなかったのだ。無事な姿を見て安堵した」
頼房は貞之の首筋に顔を埋め、安堵の滲む深いため息をついた。寒いと言いながら、頼房の腕は貞之を温めるように背に回り、袖で覆って抱きしめてくれている。
冷気が遮られ、肩がじんわりと温まった。人肌の温もりが凍てつきそうだった心を解していく。頼房は貞之を抱きしめたまま、静かに言葉を重ねた。
「私は貴方を探していたのだよ。……貴方の母君の永子姫は、亡くなった私の北の方の姉君であった。中納言殿の屋敷に永子姫のお子がいらっしゃると噂に聞いて、あの日は他でもない貴方にこそ会いに行ったのだ。……一目でわかった」
長い指がそっと貞之の顎を捉え仰向かせた。
慈しみの籠った温かい笑み。だが闇色の瞳は何かに渇望するように、じっと貞之を見つめていた。それはきっと自分に向けられたものではなく、亡くなった北の方に向けられたものだ。所縁を辿って探し出さずにはいられぬほど、それほどまでに頼房は奥方を愛していたのだろう。
けれど、貞之は頼房の北の方ではない。
「……私は大臣の北の方ではありません。共に京へと赴いても、大臣はきっと失望し、後悔なさるでしょう」
望み通り京に戻れば、きっと頼房は日に日に貞之が亡き妻とは別人だということを思い知らされる。男と女では身体の触れ心地も違うであろうし、子を作ることもできない。今でさえもう稚児扱いされるには大人になりすぎているのに、貞之はこれから年を重ねる一方なのだから、もはや齢を重ねることさえない北の方との違いは大きくなっていくばかりだろう。
そうなったときの頼房の態度を考えると、差し出された手を取る気にはなれなかった。慕う相手から見捨てられることに、貞之はもう耐えられそうになかった。
――貞之は自分の望みを知っていた。それは拠り所を得ることだ。
貞之はそれを父である中納言に求めたが、得られなかった。宇治まで会いに来てくれた匡光は大切な友人だが、拠り処にはなり得ない。彼とて貞之と同じく、自分の生活を守らなければならない若い官僚にすぎないのだから。
母と早くに死別し、父とは疎遠になった貞之は、肉親の温もりを求めているのだ。
「……私が嫌いか?」
拒絶の言葉を発した貞之を、頼房は離さなかった。抱きしめたまま問いかける。どこかで聞き覚えがある問いだと思い、貞之は小さく笑った。あの最後の閨の中で問われたのと同じ問いだと思い出したからだ。
いったい何者がこの貴公子を嫌ったりするだろう。
初めはあまりにも強引で、人の意思など歯牙にもかけぬ嫌な男だと思った。戯れで好きに扱われることも苦痛だった。だが実のところ男はいつも真剣で、情が深く、欲しいと思ったものを手に入れずにはいられない童のような心根の持ち主なのだ。この男が何不自由ない京から、わざわざ宇治の鄙寺まで会いに来てくれたことが嬉しかった。
これほど身分の高い人が、数ならぬ自分のために雪が積もる道を進んで訪ねてきてくれた。門をくぐる美々しい狩衣姿を目にしたあの瞬間から、貞之の心は揺らぎ、傾き始めている。一時の夢なのだと分かっていても、ともに京へ戻り、束の間の温もりに包まれていたいと思ってしまうからだ。
気持ちの揺らぎが表情にでたのか、頼房の笑みが深くなった。
「嫌いでないのなら、どうか一緒に居ておくれ。私は貴方の側が良い。貴方がこの寺で残りの一生を過ごすとおっしゃるのなら、私もそうしよう」
「え……」
それは、聞き違えたのではないかと思うほど、頼房には似つかわしくない言葉だった。
「私は俗世の欲を捨てきることはできまいが、それでもよければ髪を下ろし、貴方とともに念仏を唱えて過ごそう」
頼房の力強い腕が痛いほど貞之を抱きしめる。
貞之は気がついた。――別離に傷つき、もう孤独が耐えられないと思うのは自分一人ではないのだと。
望んで得られぬものとてないはずのこの頼房でさえ、同じように傷つき苦しみ、もがいている。病を怖れて近寄れもしなかったくせに、北の方が亡くなればその悲しみに圧し潰され、官職を退いて隠遁までしてしまったくらいだ。頼房はまるで貝合わせの対のように、貞之と同じ温もりに飢えているのだ。
広い背中に腕を回すと、長旅で薄れた焚きものがほのかに香った。
目を閉じてその匂いを胸いっぱいに吸い込むと、貞之は顔を上げてそっと頼房に口づけした。
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