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第三話

 最近、妙に猫に好かれる。  ニャゴニャゴとまとわりついてくる猫に行く手を阻まれながら、伊太郎はそんなことを思っていた。  これから向かう先は、日本橋にある薬種問屋、清水屋だ。定期的に頼まれている中庭の樹木の剪定をしに行くのである。  朝の遅刻癖さえなければ、伊太郎は同年代の中では一番腕の立つ職人だった。人当たりもいいので、次も伊太郎にと指名してくる客もいるほどだ。 「ごめんください、植木屋です。剪定をしに参りました」  裏口から声をかけると、忙しなく働いていた清水屋の若旦那が手を止め、出てきた。  若旦那の年は、伊太郎とさほど変わらない。勇ましい万蔵とはまた違う柔らかな雰囲気だが、万蔵同様に整った顔をしている。  大店の一人息子として甘やかされて育ったかと思えば細々とよく働くので評判もいい。婿にもらうのは無理でも、次女を嫁がせたいと画策する商家の主人は多いともっぱらの噂だった。 「伊太郎さん、今日もよろしくお願いします。すっかり春めいてきましたね。……おや、猫が」  伸びはじめた植木に目をやった若旦那は、猫の鳴き声で伊太郎の足元に視線を落とした。 「わっ、お前、ここまでついてきたのか。すみません、最近、妙に猫に懐かれるんですよ。シッシ。薬に毛が入ったら大変だろう。またあとで構ってやるから、あっちにおいき」 「猫、発情、この匂い……」  若旦那は思案しながら呟くと、ちょっと失礼と言い、伊太郎の肩に手を伸ばした。そして何かをつまみ、伊太郎の手のひらをとってそっと落とす。  薄茶色の粉だ。乾燥した植物のようにも見える。 「これは……?」 「マタタビか、木天廖(もくてんりょう)を粉末にしたものですね。木天廖だと生薬として使われるため高価になります。おそらく安価なマタタビでしょう。最近、惚れ薬として出回ってるそうなんですよ。粉末を頭に振りかけたところでなんの効果もないのに。伊太郎さん、なにか心あたりは?」 「そんな……惚れ薬だなんて。おいらは若旦那と違って、女にはとんと縁がないし、そもそも関わるといえば長屋の奥さんたちくらいしか」  伊太郎が笑いながら大げさに手を振ると、若旦那は声をひそめて言った。 「……女性とは、限りませんよ」  若旦那の言葉にギョッとする。仕事場は男ばかりだが、心あたりなんてまったくない。 「いやいや、なおさら心あたりありませんよ」 「では、想いをよせられているかどうかは別として、単純に、伊太郎さんの髪に触れてきた人はいませんか? “最近”猫に好かれている、ということは一回だけじゃないかもしれない。髪を洗えば、マタタビの粉などすぐに落ちますから」 「はぁ……髪に触れてきた人、ですか」  伊太郎はしばらく考えたのち、思いあたった。まさか惚れ薬など盛るとは思えないが、伊太郎の髪に最近触れてきた人物は兄弟子の万蔵しかいない。  猫に好かれる様を見て、からかって遊んでいるんだろうか。いや、万蔵はそんな子供じみたことはしないだろう。  伊太郎がいくら悩んでも答えはでなかった。  植木の剪定を終え、伊太郎が再び声をかけると、丁稚(でっち)の少年に縁側に座るよう促された。最初こそ客先でお茶なんてとんでもないと断っていたものの、今では仕事終わりに茶と菓子を頂くことが習慣になっている。  茶を飲み終えたところで、仕事にひと段落ついた若旦那が中庭に戻ってきた。 「さすが伊太郎さん。心あらずでも綺麗な仕事ぶりです。しかし、次は別の方にお願いします」  見てないようで、見ていたのか。  伊太郎は慌てて居住まいを正し、深々と頭を下げる。謝ろうと口を開きかけた瞬間、若旦那はかぶせるように言葉を口にした。 「いや、言い方がまずかった。違うんです。伊太郎さんにマタタビの粉をかけた方とお会いしたくて。伊太郎さんも気になるでしょう。どんな思惑があってそんなことをしたのか。しばらくは知らないふりをしてください。何かわかったら、お知らせしますから。それに、変な薬が出回るとうちの商売にも影響が出てくるんですよ。人助けだと思って……ね?」  有無を言わさぬ若旦那に少し恐ろしさを感じながら、伊太郎は清水屋のためになるならばと頷いた。

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