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第六話

 表長屋で商っている総菜屋やおでん屋の灯りが見えると、伊太郎は万蔵の背中からするりと降りた。そのまま路地に入り、万蔵の住む裏長屋へと足を向ける。 「おい、伊太郎。おでんは?」  万蔵に問われ、伊太郎は足を止めた。 「……そんなの、ここに来るための言い訳だい。惚れた腫れたってのは、おいらにはよくわからねぇけど、万蔵さんにだったら、尻の一つや二つ貸したって痛くもなんともねぇ」 「……尻は貸したり借りたりするもんじゃねぇよ。どうした、伊太郎。お前今日は変だぞ」 「どうしたって言われても、おいらにもわかんねぇ。けど、万蔵さんに構ってもらえねぇと寂しいし、ほかのやつと仲よさそうにしてると胸がこう……握られるみたいに苦しくって、邪魔してやりたくなる。明日からまたそんな思いをすんのは嫌だ」  伊太郎はそう言うと、しゃくりをあげ泣きはじめた。大の大人なのに、嗚咽が止められない。  このままじゃ、長屋中の迷惑になる。そのうちに誰か出てきてしまうかもしれない。 「わかった。そんな子供みたいに泣くんじゃねぇよ」  万蔵は伊太郎の背中をあやすようになでると、障子戸を開けて部屋の中へといざなった。  行灯(あんどん)が薄ぼんやりと照らす中、伊太郎と万蔵はささくれた畳の上に座り静かに向かい合った。 「ひでぇ面してる。……だけど、嬉しいもんだなぁ。いっときの感情でも、好いたやつに求められるってぇのは」  万蔵は愛おしそうに、涙に濡れた伊太郎の頬に手をあてた。  何年も恋い焦がれていた。このまま自分のものにしてしまいたい。でも、まともとは言えない状況の伊太郎に手を出すことは、万蔵の良心が痛んでできなかった。  万蔵は慣れた手つきで伊太郎の鬢をなでつけ、垂れてきた伊太郎の鼻水を懐紙でチョイチョイとぬぐう。 「最近ちっと冷たくしていたのは、清水屋の若旦那に、そうでもしないと意識してもらえねぇって言われたからだ。不安にさせて悪かった。伊太郎が嫌じゃねぇんなら、これまでと同じようにしてくんな」 「……なんだよ、これまでと同じようにって、何もなかったことにするってぇことか」  今日の伊太郎は昼八つ(ごごにじ)の休憩もとらず、若旦那から貰った薬の用法の紙をそらんずる勢いで読みこんでいた。  すべて、万蔵の想いに応えるためだ。その万蔵は、もう気持ちに応える必要はないと言っている。  伊太郎はやり場のない気持ちに支配された。  腰から下げていた道具袋を乱暴に開け、大事にしまっておいた薬包を手にする。用法の紙はなくたって、もうすべて頭の中に入っていた。 「清水屋の若旦那に教えてもらったとおり、尻洗って薬塗ってくらぁ。それでも抱いてくれねぇってんなら、戸に心張り棒(かぎ)でもして寝ててくんな」 「おい、うちにはそもそも盗まれるもんもねぇし、心張り棒なんて――」  部屋を出ていく伊太郎の妙に勇ましい背中を見て、万蔵はため息を吐いた。  ありゃ、やけくそになってるな。  だけどこんな機会、今を逃したら二度とやってこないだろう。  万蔵は伊太郎が畳の上に落としていった紙を拾い上げ、行灯の側で文字を読みはじめた。  なかなかあからさまな言葉の数々が書かれている。そういえば今日の休憩の時、伊太郎が熱心にこの紙を読んでいたことを思い出した。  便所で冷静になって帰るならそれもよし。その時は、何もなかったことにしよう。しかしもし戻ってきたなら、せめて苦痛だけは与えぬよう優しく抱こうと、万蔵は心に決めた。

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