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9. 昔の話4
風吹が座敷を出るなり、探偵は盛大な溜め息をついた。
「なに?青山君、疲れちゃった?」
目聡い武史が胡座を掻いていた脚を伸ばしながら訊ねる。
「いや、やはり一人で行かせるものではなかったと思ってね。だがアレは頑固だから、ついて行けば拗ねてしまうし」
「あー、まあねぇ」
ちらりと閉まったドアを見やる。
「青山君さー、フブキと初めに会ったの……10月だっけ?」
他の3人の目を気にしながら、武史が声を潜めた。
「ええ、それが?」
まだ出会ってたったの其れだけかと言われたように感じて、探偵は不機嫌に顔を顰める。
「いや、じゃなくてさ」
それに気付いた武史は、隠すこともせず苦笑する。
「アンタはゲイ?バイ?それともノーマル?」
「それは、どういう意味でしょうか?」
探偵は、首を傾げる代わりに眉を顰めた。
「いや、夏のフブキは凶悪だからさ」
「暑さで機嫌が悪くなる、と?ならば心配はいらないでしょう。今の彼は…」
「じゃなくて、アイツ超暑がりでさぁ、夏場は外じゃずっとのぼせた顔してて、それがなんつーか…」
言い辛そうに口ごもって、そして武史は更に声を潜めた。
「ヤッベー色っぺェの」
「……成る程」
それで、性癖を訊いてきたわけか。探偵は納得し、それで?と先を促した。
「俺超ノーマルなんだけど、高校の時ついな、フラフラ~っと誘われて押し倒してしまい思い切り股間を蹴り上げられた、と。その時は冗談で済ませたけどさ。あの天然フェロモンは凶悪だぜ」
「私はストレートですよ」
「なら、気を付けるこった」
「もう遅い」
「だろうな~。見てて分かったわー」
そこで武史は声のボリュームを戻し、可笑しそうに笑った。
「話し終わった?1人こんだけな」
2人が顔を上げるのを待って、坂本がスマートフォンの電卓で計算した数字を見せた。
武史はサンキューと礼を言い、スラックスの後ろポケットから財布を取りだす。
探偵は財布から札を数枚取り出すと、2人分より多い金額を坂本に手渡した。
「一条君を迎えに行きたいので、支払いをお願いしても?」
「ん?ああ……ちっと待ってね、釣り渡す」
「いえ。タクシー代の足しにどうぞ」
「お、そりゃどうも、頂戴します」
坂本は座敷を出ていく探偵の背中に両手を合わせた。
廊下に出てすぐ、手洗い所の暖簾付近に風吹の姿を見つけた。知らない男と立ち話をしているようだ。
怪しい男だ。男の風吹を相手に、顔を赤らめている。
ゲイなのか、それとも武史が言ったようにストレートの人間が天然フェロモンと言うものに取り込まれてしまっているのか。
どちらにしろ、牽制しておいた方がいい。
「風吹、帰るよ」
「あ…、探偵」
振り返ったその頬を両手で包み込む。
「遅いから心配した。ところでその方は?」
「うんとね、トイレから出て、ぶつかっちゃって」
「それは、うちのが失礼致しました」
「すみませんでした」
探偵の言葉に続いて、風吹がペコリと頭を下げた。
しかし言葉だけは謝罪した探偵の視線は、男に鋭く突き刺さっている。
「眠そうだな。今日はシャワーだけで済ませるか」
「うん」
「市倉さん達が待っている。早く行こう」
「うん。……あ、僕お金払ってない」
「それなら、私が払っておいた」
「ありがと。後で渡すー」
「いや。その代わりに、明日は君の得意な和食を作ってくれ」
「うん。…じゃあ、青山、タクシーまでおんぶー」
「じゃあ、は一体何に掛かっているんだ」
「おんぶ~」
「……名前で呼ぶなら、おぶってやらないこともない」
「んー…、ゆきみつ、眠い…」
「わかった、わかったから、寝るならおぶさってからにし給え」
「うん…ゆきみつすきー…」
「………何処まで解って言っているのやら」
恐らく、何も解ってはいないのだろう。
背中で寝息をたてる風吹を揺れないように運びながら、探偵は甘くも切ない複雑な息を吐き出した。
こうして僕は、眠ったままタケ達と別れて、タクシーに乗って、三階まで運んでもらって。
どうやらシャワーの面倒まで見てもらったらしい。
気付いたら其処はベッドの中で、汗で汚れていない体でサラサラの布団に包まれて朝を迎えていた。
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