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10. 人殺し1
その時の、トイレの外でぶつかった男である。
それが、ストーカーと化した男の正体だ。
初めはそれと気付かなかった。その男の顔などすっかり忘れていたからだ。
あの時はすっかり酔っていたから、寧ろ初めから見えてなどいなかったと言うのが正しい。
皆で飲んだ数日後、お昼過ぎに植木に水をやりに下りたら、知らない顔が探偵事務所の様子を窺っていた。
探偵に依頼したいことがあるのかもしれない。
けれど、播磨 さんからの紹介でなければ断らないとならない。
こんにちはと話しかけると、焦った様子でこんにちはと返してきた。
初めて探偵事務所に訪れようとする人間が緊張しているのは、よくある話である。
事務所に何かご用ですかと尋ねると、男はあーとも、うーとも取れぬ発音で声を発した。
他人と話すのが苦手なのかもしれない。
なるべく安心させるよう笑顔を浮かべて、ご紹介以外のお客様の依頼は受けられない旨を伝えた。
ごめんなさいと頭を下げて、水やりに戻った。
水をあげている最中ずっと、男はこちらを見つめていた。
二階に上がると、探偵はデスクに向かい、パソコンと睨み合っていた。
定位置から追い出された猫が、足下にぶつかって席を取り戻すよう催促してくる。
「ねえ、青山。この辺で、他に探偵事務所ってあるかな?」
「なんだね、藪から棒に」
「下に困ってるっぽい人がいたから、何処か紹介してあげられたらなって」
デスクの上に放り出された猫のクッションを窓際に置いてやる。
「必要ならば自分で調べるだろう」
探偵は面倒臭そうに答えると、自分のスマートフォンをヒラヒラと振って見せた。
確かに、ネットで調べれば一発で見つかるか。
「30代くらいの男の人でね、断ったんだけど暫く僕の方気にしてたから」
猫が鈴の音を響かせながら、クッションに飛び乗る。
「君を?」
「うん、お花に水あげてる間、ずっと見られてたから。相当困ってるのかな、って」
「どの男だ?まだ下にいるか?」
「ん…?」
窓から下を見下ろすと、探偵が被さるようにしてそれに続いた。
道のこちら側、向こう側、カフェのテラス席……。
もうこの辺にはいないようだ。
「帰ったのかな。悪いことしちゃったかなぁ」
「何を寝ぼけたことを言っている。依頼したいのなら、調べずに来る方がどうかしているのだ。しかし、もし……」
探偵は言葉尻を小さくし、そのまま押し黙った。
もし、の後に続く言葉が「君を狙う男だったら」だったなんて、その時の僕には思い付きようもなく。
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