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22. 風吹の力2
坂田昭彦、29歳。
住所は武蔵村山市。
職場は、渋谷区内の証券会社だが、『前職』となっている。退職理由は自主退社だが、その実は横領で懲戒免職。
現在は無職。日雇いの工場などで働いているらしい。
横領しての解雇、無職で毎日武蔵村山から青山まで、よくまあ毎日通い続ける気になったものだと半ば感心する。
写真の男は、年齢よりも少し老けて見えた。
身長170㎝、体重65㎏。風吹の言葉通り、中肉中背である。
鼈甲 柄のレキシントンの眼鏡の下の目は、虚ろに開かれている。覇気のない男だ。
そんな男が遙々渋谷付近まで通ってくるのだ。どれだけ彼に入れあげていたと言うのか。
まだ定期券の期限が残っているのかもしれないが、それにしたって解雇された会社の圏内だ。来辛くはなかったのだろうか。
書類から眼を外し顔を上げると、詩子は真っ白な綿帽子のような子猫に水をあげているところだった。
初めて此処に来た時よりも、大きくなっている。
あの時は、あっちに行っていろと追い出された風吹が猫と遊んでいて、静かにできないのかと叱られて…。
なんて無邪気で可愛らしい人なのだろうと思った。
随分と前から此処に来ている気がしていたが、まだ4ヶ月しか経っていないことに気付いて、葵は苦笑する。
水を飲み飽きたらしい猫が、チリチリと鈴の音を鳴らしながら歩いてきた。
手を伸ばすと、鼻を手の甲にすり寄せてくる。
「猫は本当に葵様が好きですわね」
名前は『猫』と言う。飼い主である探偵がそう呼ぶからだ。
探偵以外には余り懐かない。
餌をやる風吹と詩子にも、それ以外の時間に進んで近寄ることは多くない。
探偵に対しても、自分にしつこく構ってこない温かいものだから傍に寄る程度の扱いである。
だから、このように猫の方から構ってくれと誰かにすり寄っていくのはとても珍しいのだと、風吹が言っていた。
「葵君は動物にも好かれるんだね」と。
動物にも───彼は『にも』と言うけれど、自分は同じ人間に好かれることは少ないと感じている。
それもそうだろう。真面目一辺倒で面白味もない。同期を蹴散らし先輩さえ踏み越えなければならない警察官僚への道を、自ら選び進んでいる。
心ある人間には選べない職だろうと葵は認識していた。
3才と言う幼い歳から私立の附属幼稚舎へ入り、周囲とのつきあいは建前ばかりでこなしている。
本音でつき合えたのは、大きな懐で受け止めてくれた所轄刑事課の呉島正雄だけだった。大人の呉島に一方的に甘えていただけである。
だから葵にとって、風吹は特別な存在だった。
両手を広げて、おいでと待ってくれたわけではない。
殻に穴をあけ、中に手を射し入れ、飛び込んでくるのか引き出されるのかと動揺しているうちに、殻の中と外との境界線を曖昧にしてしまったのだ。
少し強引だったかもしれない。しかしその強引さが、心地好かった。嬉しかった。
彼にもやはり、甘えているのだろう。自分のすべてを受け入れてくれる人として。
探偵と執事、彼らも葵にとっては特異だった。
決して好きではない。苦手だ。会えば嫌悪感を覚えずにいられない。
そんな相手は他にもいる。しかし葵がそれを表に出す相手は、あの2人だけだった。
それも風吹の力なのだと思う。
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