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23. 葵と詩子1

目の前にコトリとグラスが置かれた。どうぞと差し出されたのは、氷の浮かぶアイスティーだった。 「ありがとうございます」 ストローに口を付ける。 帰り損ねてしまった。だがそれも、自分が望んだことなのかもしれない。 彼が起きるまでここにいたいと。 腰が重くなったのは無意識だったのかもしれないけれど。 守りたいと思う。守らなくてはならないと思う。 休みの日はなるべく此処に来て、彼を守ろう。 「詩子さん」 テーブルに置いた書類を持ち上げると、膝に落ち着いていた猫が揺れる紙にじゃれついた。 「駄目だよ」 頭を撫でると、気持ちよさそうに手に顔を摺り寄せてくる。 その隙に、詩子に書類を手渡した。 「この男性が?」 写真を見た詩子が、眉を顰める。 「申し訳ありません」 葵が頭を下げる。 「貴女は知らなくて良いことかもしれない。風吹さんの為に、貴女を危険な目に合せてしまう。青山さんは、貴女を護るために情報を───」 「むしろ反対ですわ、刑事さん」 葵の真剣な様子に、詩子はふんわりと笑みを零した。 「相手が誰か知らないでいるよりも、知っていた方が警戒もできると言うもの。それに兄が私に何も教えないのは、面倒だからですわ。私と話していると、もれなく喧嘩になりますもの」 私たち兄弟仲が最悪ですの、と詩子は可笑しそうに笑う。 「ですがそのお蔭で、兄には無い推理力、考察力が身に付きましたの」 「───ありがとうございます」 葵が深々と頭を下げる。 すると詩子は、拗ねたように唇を尖らせた。 「そこでお礼を言われてしまうと、まるで私が仲間外れのように感じますわ。私も風吹様のことが心配ですのに」 「っ……そうですね。すみません」 「いいのですわ。どうせ学生などまだ役立たずだと思っていらっしゃるのでしょう」 「いえ!そんなことは…!」 「…………」 「貴女のことは聡明で、信頼できる方だと思っています。ですから、風吹さんを一緒に───」 「ふふっ、冗談ですわ」 詩子は堪え切れずと言った様子で、とうとう吹き出した。 頭の中では『風吹様LOVEの葵様、激萌え』等と不謹慎なことを考えているが、それをおくびにも出さず鈴を転がしたように上品に笑う。 葵はからかわれていたことに気づくと、頬を少し赤く染め視線を落とした。 助けを求めるように、膝上の猫の背を撫ぜる。 更に萌えポイントUPである。 詩子は書類をテーブルに置き、写真を指さした。 「この男性でしたら、最近は毎日のように下のカフェのテラス席に座っていますわ。私最近、午後5時から6時頃に帰ることが多いのですけれども、その時間にでしたら毎日。4時台、6時過ぎに帰った時は、…そうですわね、見かけなかったかと存じ上げます」 午後5時から6時。風吹が買い物に出る時間帯である。 「いつも決まった席に座っていましたので、たまたま違う席に、店内の席にいたという可能性も否めませんが。ですが、少々目立つ方でしたので」 坂田は中肉中背、容姿も際立つところなく、お世辞にも人目を引くとは言い難い。 つい怪訝そうな視線を向けてしまったのだろう。 詩子は少し申し訳なさそうに、この街並みに浮いていたものですからと付け足した。 「服装は大抵、半袖のボタンダウンシャツ、色はホワイト、グレー、薄いブルー。ホワイトの頻度が一番多かったでしょうか。下は男性が良く穿かれる…」 「スラックスですか?」 「恐らくそれですわ。色はブラックばかりだったように思います。葵様の穿いていらっしゃるお召し物もスラックスでいらっしゃいますの?」 「いえ、これはスーツとセットのパンツで」 「まあ、そうなんですの。スラッとしていてとても素敵ですわ。お脚が長くていらっしゃいますのね。腰も細くて、私の腕でも簡単に回ってしまいそうですわ」 では回してみますかとも言えず、貴女の方が細いですと言うのも違う気がして、葵は返しに困って黙り込む。 「最近はとてもお暑いでしょう。混んでいない時間にテラス席に座る方は珍しいのですわ」 詩子は何事もなかったかのように、話を軌道修正した。

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