98 / 211

30. 来訪3

風吹もよく、猫を構っては戯れている。しかし、ここまでメロメロになることはない。 時々猫パンチされて逃げられている。だが、あそこまで激しく拒絶されているのを見たことはない。 「あーっ、甘噛みしちゃだめだよ、にゃーさん。痛いでしょ、めーっ」 それは、甘噛み等という優しいものではない。 「あの、伊吹さん…?血が…」 「だいじょーぶだいじょーぶっ、このくらい」 「後で治療をしますから…」 「あーっ、こらあっ!爪が出ちゃってるよ。だーめ」 「治療…させて下さい…」 疾風のごとく逃げ出してきた猫が葵の足下へ入り込み、フーッフーッと背中を毛羽立てた。 アイスティーを運んできた詩子に話して、救急箱を出してもらう。 「お前は水でも飲んでおいで」 落ち着いてきなさいと言う気持ちを込めて伝えると、猫は言葉が解るのか水飲み場へ歩いていった。 「名波さんはネコ使いなんだねぇ」 羨ましそうに伊吹が呟く。 ネコ使いではないのだが……。 葵は律儀に心の中で彼の言葉を否定した。 未だ動揺が消えない。 詩子も戻って来るなり動きを止め、暫く呆然としていた。 今は惚けたように、葵が伊吹を治療する姿を眺めているが。 「あの子は気まぐれなので、自分から来たとき以外は構われたくないみたいです」 「ほーっ、生粋のネコちゃんなんだねぇ」 「風吹さんが使っている猫じゃらしがありますので、それで遊んであげると喜ぶと思いますよ」 「ほんと?ほんと?わーい。教えてくれてありがとう、名波君っ」 語尾が嬉しそうに跳ね上がる。 名波さんから名波君に昇格した。 そう言えば、双子の弟、と言っていたか。確かにこれは、弟だ。風吹さんよりも子供っぽい。 初めは扱いづらいプライドの高そうな男だと思っていたが、葵は今や、まるで可愛い弟を見守るような視線を伊吹に投げかけていた。 「伊吹さん、シュークリームがあるのですけれどいかがですか?」 「いただきまーす」 詩子がそう尋ねると、伊吹は嬉しそうに答えた。 まるで来慣れた場所のように、ペタンと床に座り込んで猫じゃらしで猫と遊んでいる。 「葵様も召し上がって下さいませ」 「ありがとうございます。頂戴します」 「はい。只今お持ちいたしますわ」 詩子が給湯室へ入っていくのを見送り、葵は先程取ってもらったコピーとスマートフォンを取り出した。 ストーカー男の写真と基本データの部分を写真に撮り、保存する。 次に開いたのは新規メールの打ち込み画面だ。 本文を素早く打ち込むと、今し方の写真を2枚添付し、送信ボタンを押す。 メール送信の確認画面が出たと同時に、ドアが開き詩子が戻ってきた。 「シュークリームが甘いので、コーヒーもお持ち致しました」 皿に載ったシュークリームとコーヒーのセットを3脚、紙おしぼりを3本テーブルに置くと、窓際で遊んでいる伊吹に声を掛ける。 「また後でね、ねこにゃん」 伊吹が名残惜しそうに猫じゃらしをしまうと、猫は遊び疲れたのか定位置のノートパソコン上のクッションに飛び乗り丸まった。 「詩子ちゃん、ありがと」 すっかり、別人だ。 詩子は頬をゆるゆるにし、いいえと首を横に振った。

ともだちにシェアしよう!