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50.執行者R 1

探偵の問いに、菅原由実は応えない。頑なに唇を結び、外光を反射する床を何処とはなしに見つめている。それだけだ。 逃げるそぶりもない。押さえつけられる苦痛をも感じていないかのよう。 「私は、怒っているのだよ」 地の底から響くような低い声に、由実の頭が僅かに上がった。途端に、その顔面は床に打ち付けられる。 背中を男の大きな靴で踏まれた由実は、されるがまま床に這いつくばった。 「貴女が一条君を人質に取るから、更科春子の依頼を破棄する羽目になった」 探偵はその背に向けて、破った紙をはらはらと降らせる。 「これはもう、使い物にならない」 あれは、父親の依頼を取り消すために───正確には、自分を守らないようにと依頼した春子さんが置いていった小切手だったのだろう。 「一条君は血塗れだ。更科春子は死に損なった。私は此処に人助けに来たわけではないと言うのに。更科氏との契約遂行のため、犯人を捕らえにきただけが、なんだこの様は」 「探偵様…?」 春子さんの声が聞こえる。 そう、春子さんは更科重行氏からの依頼を取り消してくれと言った。自分のボディガードなどしないで欲しいと。 しかし、更科氏の依頼は、犯人を捕らえろと言うものだった。 探偵は、更科重行の依頼を受け、そして上乗せするように娘・春子の依頼をも受けたのだ。 犯人は捕らえるが、春子さんのことを護ることはしない、と。 バタン───と、ドアの開く音がした。 「っ…風吹さん!?」 この声……葵君? 「おや~、これは派手にやられたねぇ。雪ちゃん、風吹ちゃんは大丈夫なのかい?」 「ええ。妹が止血していますから」 正さん、も…?どうして、2人がここに……? 「救急車は!?」 「手配済みです」 上擦った声の葵君に、高虎が冷静に答える。 「動かしても大丈夫ならば玄関に…!」 「いえ、こちらの窓側に救急車を付けていただいた方が宜しいかと」 「風吹さんは無事なんでしょうね!?」 「詩子お嬢様が止血して下さっております。恐らく命に別状はないかと」 「貴方は…っ、何故そんなに落ち着いているんだ!!」 「っ……これが落ち着いているように見えるか!!」 あぁ…もう、なに喧嘩してるんだよ。警視庁の管理官と良家の執事が、犯人の前でみっともない。 2人共、人前で取り乱しちゃいけない職業なんだろ。 「ばー…か、喧嘩なんて、すんなよ…」 僕は平気なんだよ。大した怪我じゃないんだから。ちょっと出血が多いだけで、大の大人が大騒ぎすることなんて…。 愛されてるなぁ、僕─── 「お静かになさいまし。風吹様の傷に響きますわ」 詩子ちゃんの静かな一喝が響き、2人は気まずそうに口を噤んだ。 「風吹さん…っ」 葵君が探偵を避けて近付いてくる。 手を握られる。 犯人そっちのけで。 「風吹さん…」 手を握り返して、大丈夫だと教える。 葵君は警察の人だから、怪我人や人の死になんて慣れているだろうに。なんて言ったら失礼かな。 だけど、こんなにオロオロしてる姿なんて、部下の前では見せられないね。 「───実は、私は早稲川大学の出身なのですが」 唐突に───広い部屋に、探偵の声が響いた。

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