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第一章──最終話 3──

と、そこへ再びドアを叩く音が聞こえた。 今度は詩子が立ち上がり、ドアの向こうへ問いかけた。 「はい、どちら様でいらっしゃいますか?」 「…もしかして詩子さんでいらっしゃいますか?私は、警視庁の名波と申します。風吹さんに───」 「葵様っ!」 言葉の途中で詩子は扉を引き開けた。 「よくお越し下さいました!さあ、どうぞ遠慮なくお上がり下さいませっ」 葵は面食らって数回瞬きし、しかし直ぐに佇まいを正し折り目正しく腰を折った。 「こんにちは、詩子さん。では失礼して、お邪魔いたします」 私服である。彼も今日は休日なのだろう。 「私の名前、覚えて下さっていたのですね。嬉しいですわっ」 「あ、…いえ、その、勝手にお名前でお呼びして…」 「私、ちゃん付けでもよろしいんですのよ」 「あ、…それは、…その…」 「風吹様は今、給湯室にいらっしゃいますの。春子お姉様のお屋敷でお会いしたもうお一人のお姉様は覚えていらっしゃいますか?あの時の千春お姉様もいらしておりますの」 詩子に促されて葵がソファーに座ると、ちゃっかりその隣に詩子は腰を下ろす。 葵と挨拶を交わしていた千春はその姿に頬を丸めると、「ずるいですわ、詩子さん」と自分も葵を挟み込むようにその隣へ移動した。 「でも、こうして葵様を私たちが独占していたら春子お姉様に叱られてしまいますわね」 困惑している殿方の様子に気づかず、2人は黄色い声を響かせる。 「だって葵様、春子お姉様の一推しですもの」 「きゃーっ、大変ですわ。叱られてしまいますわ」 怯える姿もどこか楽しそうだ。 「でも葵様、誤解なさらないで下さいませね。春子お姉様は葵様が一推しですけれども、それは本命と言う意味ではありませんの」 叱られてしまうなら早いところ解放して欲しい、とぼんやりと考えていた葵は、千春の言葉に頭の回転を早める。 「…ああ、彼女は執事の中川さんと、」 「あらあら、それは見当違いですわ」 皆まで言う前に、詩子に訂正を入れられる。 「中川さんとは、ただの主従関係ですもの。お姉様は筋力や体格に優れた殿方はお好みではありませんし、公私を混同されるようないい加減な方でもありませんのよ」 「それは、…すみません」 どうやら真性お嬢様方の中では、執事とお嬢様との恋は、公私混同のいい加減な関係となってしまうようだ。 「お姉様は、少し小柄で可愛らしい殿方がお好きなのですわ。優しくて、一生懸命で…」 「まあ、詩子さん。お喋りが過ぎますわ。お姉様のいらっしゃらない場で」 千春に諭され、詩子は失言してしまったとばかりに両掌で口を押さえ、上目遣いに葵を盗み見る。 「…私は何も伺っていませんよ」 春子の想いの先がどこに向かっているのか、そこまで聞けば気付かないでもないが、知らんぷりを決め込んでやると詩子はホッとしたように胸を撫で下ろした。 「感謝いたします、葵様」 そして漸く腰を落ち着けた葵は手土産を詩子に渡し、詩子はそれを受け飲み物の好みを訊いた。 それではコーヒーを、と言う返事を聞くと、詩子は手土産片手に立ち上がり、給湯室へ向かう。

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