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第3話
*
「それオレの兄ちゃん」
輪太郎オニイサンがリビングの隅の仏壇を見つめていたから気まずくならない調子でオレから話しかけた。輪太郎オニイサンに渡したアイスが溶けてしまいそうなことのほうが気がかりだ。輪太郎オニイサンはアイス食べるの下手かも知れない。
side Eito
「っ、そうなのか…。すまない…」
別に輪太郎オニイサンが謝ることじゃない。
「いんや、そんな若くして死んだらフツー気になる。オレだって気になるもん」
遺影の笑う少年はまだ小学生くらいに見えるし、実際に小学時代。赤白帽を首の後ろに掛けて、振り向いて眩しそうに笑う。運動会のワンシーンみたいにだったし実際にそう。シャッター切ったのオレだし。
「交通事故。前のそこの通り、時差式信号機でさ…もう違うけど」
「…そうか」
「もうずっと前の話だから、あんまり悲しいとか寂しいとか思ってないんだよ。薄情だと思うかも知れないけど」
「いや…薄情だなんて思ってないさ。教えてくれてありがとう」
輪太郎オニイサンのアイスが溶けて、その手を汚すことのほうがオレにとっては一大事に思えた。だって兄貴はもう死んでる。でもどんな些細なことでも目の前の輪太郎オニイサンは生きてる。舐めとれば済む話。でもその舐めとる姿をオレは平然と見ていられるか?見ていなければいい?オレは在原業平の気持ちがなんとなく分かった。確かに桜がなくなればこのざわついた気持ちごと消え失せる。all or nothing.それで気分はずっとずっと落ち着く。
「アイスもう1本食べる?」
「いや…うちではアイスは1日1本だから…」
「じゃあオレん家 にいる間は悪いことしようよ。昼間からアイス2本食べるとか、寝ながらテレビ見るとか、なんでもかんでもマヨネーズかけて食っていいとか、夜にお菓子食っていいとか、ゲーム1時間以上していいとか」
どの程度輪太郎オニイサンの家が厳しいのかは知らないけど。双葉もしっかりしてるから、結構厳しめなんじゃないだろうか。ってことはあの性格 捻曲 がってそうなロールキャベツっぽいイケメンお兄やんもそれなりにしっかりさせられてるってこと?すっごいモテるらしいし絶対モテるやつじゃん。
「なんだそれは」
「厳しそうな家のルール?」
「別に俺の家 は寝ながらテレビ観てもいいんだが。マヨネーズかけるのは作り手に悪くないか?寝る前に糖分は太るし、ゲーム1時間以上は目が悪くなりそうだ」
「アイスもう1本食べるのかどうかって訊いてるんだけど?」
「食べる」
オレはへへへと笑った。
輪太郎オニイサンはゲームの途中で寝てしまった。格闘ゲームだ。1時間以上は目が悪くなると言って2時間半以上。抑圧的な生活を強いられているのかも知れない。オレはゲームを切り上げ、輪太郎オニイサンにタオルケットを掛けた。今頃行方不明扱いになったはしないかと心配になる。双葉のブラコンならそれくらいはする。喧嘩相手はおそらく真ん中だろうし。オレは輪太郎オニイサンの寝顔を見つめる。首筋に点々とする赤い跡。なんだか胸がざわざわとした。
「おっぷ」
輪太郎オニイサンの腕がオレの腕を引く。マヌケな声でオレは輪太郎オニイサンに引かれたまま床に前のめる。タオルケットを挟んで強く抱き締められる。目の前に迫った輪太郎オニイサン。オレがレイプした人。首を伸ばして鼻の頭を舐めた。ぴくりと眉が動いた。皺が寄るのが気に入らず、でことでこを合わせる。
「あのイケメン腹黒優男と何があったの…?」
多分オレより1コくらいは歳上なんだろう。誕生日によっては2コもあるな。輪太郎オニイサンは静かに寝息を立てる。オレが動こうとすると骨が軋むほど強く抱き直された。すりすりとオレの鎖骨や胸に頭を埋めようとして、オレはなんだか急に切なくなった。自分をレイプした男に擦り寄るほど追い詰められているのだろうか。
『帯貴 はお兄ちゃんなんだから、我慢なさい』
懐かしい。もう母ちゃんがこう言うことはない。二度とない。寂しくはないけれどそれがオレの成長に伴うことではなくて、兄貴が死んだことで言われなくなったというのが複雑だった。
「兄貴」
兄貴だなんて呼んだことはない。なんとなく目の前の好青年に呼んでみたくなった。多分生きていてもこういう風にはならなかっただろう。輪太郎オニイサンの手がオレの顔に触れた。撫でるように。落ち着かせるように。家でこういう風に呼ばれてんのかとオレは思ってしまった。半乾きの髪を撫でられた。これは双葉もゾッコンだろう。双葉にもやってるのかは知らんけど。でも妹とはいえ高校生の女の子にこれは色々と問題ではなかろうか。なんだか悶々(もんもん)とした。オレはモンモンと。双葉に対する罪悪感が湧いている。オレは輪太郎オニイサンの小さく丸まろうとする大きな身体をぽんぽん、赤ちゃんにするみたいに軽く叩いた。
*
side Futaba
兄さんが出ていってしまった。わたしは気付かないふり。でも落ち着かない。どんよりした一枚 くんの姿がリビングにある。お葬式みたい。でも一枚 くんのせいなのだろう。でもわたしだって責められない。一枚 くんは知らないだろうけどわたしはカレシを使って兄さんを犯した。どういう経緯かは分からないけど、一枚 くんは兄さんとセックスするようになってしまった。夢が現実になってしまった。一枚 くんはどういうつもりか、兄さんとセックスする時扉を全開にする。下の階に行くときわたしは兄さんの部屋の前を通らなくてはならないから、わたしは冷ややかに何時間も続く2人の兄がセックスする様を見なければならなかった。一枚 くんはまるで牽制みたいに兄さんの顔が通路に向くようにした。わたしは毎回兄さんを見下ろす。一枚 くんのことだけは見られない。だって兄だ。兄弟姉妹 のセックスなんて気持ち悪い。わたしのその感覚がわたしが兄さんに抱くものが異常であることを色濃くさせる。だって兄さんがセックスしている姿は綺麗だ…とはいっても、あくまで男の欲望に晒されている姿。
[兄さんがいなくなっちゃった。]
通信アプリでカレに打つ。メールとは違って、全文奥なくても相手が同時に開いていればリアルタイムに返信が来る。あくまで受信者が同時に開いていたら。わたしはメールだったら1行目に書き出したことを通信アプリで送信した。次には、明日のことを続けようとした。メールとは要領が違い、どちらかというと短文を区切って送ったほうが用途に適しているらしい。相手が既に読んだという印が時刻とともに浮かぶ。
[だってオレんちにいるもん]
目を疑う。送信先からすぐに返事があったこともだが、その内容に。なんで?以外に言葉が出なかった。テキストボックスに打ちかけていた明日のことを消したはいいが、何を返せばいいか分からなくなった。
[輪太郎さんの靴持ってきてくんね?もしくはオレが取りに行く]
輪太郎さん?ふざけないで。わたしは感情的にタッチパネルのキーボードの上を彷徨う指先を押さえる。何度もカレシから来た目を疑うメッセージを凝視している間に、またメッセージが届く。
[取りに行くわ。]
兄さんとカレとの会話が嫌でも頭に浮かんでしまう。
『双葉に来させるのはちょっと』
『じゃあオレ取りに行くわ』
最悪なのは、
『今双葉には会いたくない』
『じゃあオレ取りに行くわ』
あり得ない話ではない。
全て話してしまおうか。あなたと一緒にいるのは妹に見られながら弟にセックスを強要されてるのだと。そうすればあの軽率な男は兄さんから離れるだろう。でもわたしはそんなふうに兄さんを貶すようなことは言いたくはない。
わたしは感情が高ぶって物に当たる人やそういう描写がまるで理解出来ず、感情移入に困っていた。でも今なら分かるし、右手に走った熱を考えるとやってしまっていたのだろう。壁を殴っていた。骨で隆起した皮膚が擦り剥いている。でも突然沸点を超えた感覚の処理する方法をわたしは学校でも教わらなかった。兄さんにも。一枚 くんなら知ってるの?
[双葉?]
[分かった。兄さんをよろしく]
打てたのはそれだけ。カレと会って、わたしは平生 でいられるだろうか。いられないかも知れない。今にも一枚 くんに八つ当たりしてしまいそうで。父さん母さんには何て言おう?兄2人がセックスして兄さんが出ていってしまったと言ったらどう思うだろう。母さんは清々する?でもそんなことしたら兄さんが帰ってくる場所がなくなっちゃう。そんなのはだめだ。冷静にならなければいけない。引き離されるのは多分一枚 くんじゃなくて兄さんだ。母さんだってそう取り計らう。何より兄さんが身を引くだろう。父さんは多分母さんに流される。兄さんは父さんにとっての本当の息子なのに!わたしは感情と理屈の板挟みだ。でももっと板挟みなのが兄さん。わたしは兄さんの部屋からパーカーとジーンズ、端末と財布を簡素な袋に入れる。わたしはわたしの望むことをした。悔いはない。でも憂いは残る。玄関に降りて兄さんの靴を確認した。リビングで電気も点けず放心している一枚 くんを睨む。セックスを迫って逃げられた。ここ最近兄さんの様子がおかしいと思っていた。わたしは、兄さんは男だから、女性がレイプされて妊娠するよりも大したことはないと思っていた。でも考え直せば一枚 くんは腹違いとはいえ弟で、腹違いとはいえ妹にその行為を見られ、何事もなかったように両親の前で振る舞わなければならない。ここ1週間、普段目にしないお酒の缶。父さんのものかと思っていたけど、兄さんのかも知れない。わたしは玄関でインターホンが鳴るのを待った。
*
side Hitohira
ボクは何てことをしてしまったんだろう。頭を抱えて、兄とのことをずっと考えていた。兄を初めて抱いき、その中に想いの丈をぶち撒けてからもうそのことしか考えられなくなってしまった。セックスはあんなに気持ち良いものだったか?兄がボクを求めてくればそれはもっと気持ちの良いものになるとボクは確信していた。毎日数時間かけてボクは兄を抱いた。双葉に見せるのが趣味になっていた。双葉の冷ややかな目が兄に向くと、ボクは兄を現実で犯しているのだという実感でさらに固くなった。兄とセックスしているのだ。ボクには妹、兄には腹違いの妹の前で。妹への、戦線布告でもあった。所有の誇示だ。兄は双葉には甘いところがあったから。
ボクはもう日常には戻れない。きっと戻っても無為に言い寄ってくる女の子を抱き潰す。まるでセックス依存症みたいに。そこにセックスのなんたるかなんてない。ゴムは付けるものだ。お互いを尊重し合うものだ。なんだの、かんだの。でもボクはただ射精するだけ。それなら動物みたいにマウントとるか生殖活動で十分だ。兄を抱けないならボクはセックスなど要らないだろう。世が女性に求める生産性こそがボクにとっては生産性がなかった。ボクは抱かなければならないのだ。セックスはただ自分が満足すればいい。相手の体温と身体を使って。お互い好き勝手することを許し合う人々でやったらいい。子作りする気もなくセックスするのが間違っている。なぜボクはそれに気付かなかったのか。でもボクは兄とセックスするだろう。
インターホンが鳴る。ボクは兄かと思った。だがいつの間にか玄関にいた双葉が出た。ボクの迅る意識は沈められる。双葉のカレシだ。
「明日は休むから」
「いや、悲しむぞ。簡単な弁当作ってくれるらしいから、明日学校で渡すわ」
「…明日は帰ってくるの?」
「オレとしてはそのつもりだけど、あとは本人次第でしょ」
仲が良い。ボクもカノジョを作れば良いのだろう。でも分かってしまう。兄への想いは上回らないってことに。どれだけ綺麗事を並べてもボクには恋と性欲は隣接している。色恋沙汰に重きを置かない生活をしていても、男である以上膨らむ欲がある。性欲の発散であるなら、ボクにはあてがたくさんあった。そして恋の枠の中にいる兄。兄だ。同居している。性欲が恋を呼ぶことはなかったけれど、恋が性欲を呼んでしまう。性欲と恋が切り離せない。セックスを連想させないほど清いが、でも好きだという例には出会ったことがない。ボクに良くしてくれた先生、可愛がってくれた田舎の近所の老人、その人たちにはあくまで好感であり、色恋沙汰と性欲とはまた別次元だ。
「王島くん」
「へい」
双葉とそのカレシの会話。ふざけた返事。兄が聞いたらきっと怒る。
「兄さんをよろしく」
「分かってる」
双葉の発した単語にびっくりしてしまった。だがそんなはずはない。きっとカレシ側の兄の話だろう。
「くれぐれも変な真似は…」
「当たり前田の勝利絵馬 」
ふざけすぎだ。ボクも前田神社の勝利絵馬にでも願えばいいのかも。また兄とセックス三昧の日々が来るようにと。いや、結局望むところはセックスではない。セックスは望む中のひとつ。過程というよりはオプションだ。ボクはオプションにこだわり過ぎていた。身体に受ける暴力より心に受ける暴力のほうが痛いと聞いたことがあるが、その大きさは痛みでなく快楽にしてしまえば語順は逆になる。兄を抱くことで得る快楽に、ボクは一瞬の中毒者になっていた。
「あんま変なメッセ送ってくんなよ」
メッセ。国民の義務とでも化しているのか、社会に生きるならそのアプリを入れておかないほうが迷惑と言わんばかりの通信アプリ。便利ではあるが、ボクは時折煩わしくなる。
「王島くんにするわけない」
「オレじゃなくて。今ちょっと落ち着いてるところみたいだから」
「…」
「あなたには関係無い、とか言うなよ?少なくとも今は…明日くらいまでは関係あるんだからな」
「…分かった。それが次善かな」
「じゃあサイゼンはなんだよ」
「無理矢理連れ戻す」
「…それえごいすとってやつじゃん。大事なんじゃないだろ、ただ所有してたいだけじゃん、そんなの」
「分かってる。多分必要な期間なんでしょ。あなたのもとじゃないなら最善だとは思ってた」
双葉の言葉が引っ掛かって仕方がない。あの会話はボクは無関係ではないような気がして…
「弱ってる相手に手、出さないしそもそもオレはそっちのケないから」
「…今はあなたを信じる。それに巻き込んだのはわたしだしね」
何かが引っ掛かる。でもあのカレシが兄を知るはずがない。双葉が紹介すれば無理はないが、兄はあのカレシにネガティヴな印象を抱いていたし、わざわざ何故兄が妹のカレシの元に行くのか。ボクの知らない間に面識があった?まさか。
「じゃあ、また明日」
「あ、そうだ言い忘れてた」
「何?」
「"明日くらいは寄り道するなり買い食いするなりして来なさい、社会勉強だ"ってさ」
玄関の閉まる音がした。肩を落として目元を拭う妹がリビングの前の廊下を通り階段を上がっていった。
*
side Eito
「悪いな」
「いんや?かわいいカノジョの顔も見れたことですし?」
「やめろ」
寝起きの輪太郎オニイサンに双葉から預かった荷物を渡すとふわりと微笑まれたのが照れ臭くなってつい双葉のことを出すと渋いカオをされた。
「…一枚 は何か言ってたか」
「次男は話にも上がらなかったけど?」
「…そうか」
少し寂しそうだった。輪太郎オニイサンは端末を手に取った。充電器まで入っている。気の利く妹を持ったものだ。オレのと機種違うから大助かり。だってバッテリー切れてる。まさか双葉、がんがんメッセ送りまくってテロ並みのことやったのでゎ?と疑ってしまう。
輪太郎オニイサンは夕飯の支度を始める。オレはなんでか居心地がよくてリビングに居座っていた。リビングはこんなに居心地が良いものだっただろうか。別に両親の仲が殺伐としているだとか、大っぴらに喧嘩が始まるだとかいうわけではないけど。
「何か手伝うことないの」
「お、手伝ってくれるのか?じゃあ米でも研いでもらおうか」
「ほぉい」
言ったはいいけどオレは知らない。やり方を。
「カップに…、君は大食いか?」
「フツーだと思うけど」
「じゃあ計量カップ4杯くらいだな」
輪太郎オニイサンはじゃがいもを洗いながら、動きを止めてしまったオレに指示を出す。オレは炊飯器の釜に言われた通りカップ4杯の米を入れた。輪太郎オニイサンはシンクから少しずれた。
「2回か3回くらい、水を入れて洗ってくれ」
「ラジャー」
「洗剤は、入れないからな?」
「それテレビでよく見るやつ!」
輪太郎オニイサンは冗談なのか本気なのか分からないが優しい調子で言った。双葉か、あのほのぼのイケメンか、はたまた友人か、無さそうだけどありそうなジョカノか。米を洗剤で洗う猛者 がいたのかも知れない。
オレは米を研いで炊飯器に入れた。輪太郎オニイサンはじゃがいもの皮剥きをしていた。昔みたいだ。母親の手伝いが兄弟揃って好きだった。
「次は?」
「もう大丈夫だ。ありがとうな」
「そっか」
「君は高校卒業したら、どうするんだ」
「どうするって?大学行くのかってこと?それなら多分大学行く」
輪太郎オニイサンの質問の意図が分からなかった。でももしかしたら双葉とのことを心配しているのかも知れない。
「一人暮らし?」
「まだ志望大も決めてないんだけど」
「そうだったか」
輪太郎オニイサンは器用にじゃがいもの皮を剥いていく。双葉が少しだけ羨ましくなった。
「オニイサンは?」
「オレは来年卒業の大学生。もう単位もほとんど取り終わって、ゼミでバイトしながら家のことやってるんだ」
輪太郎オニイサンがよく家にいるらしいことは双葉の話から聞いていた。
「オレたち何も知らないんだな」
「君ときちんと話すのは、多分これが初めてだろう。話さなきゃ、何も分からない」
輪太郎オニイサンは太陽みたいだ。でも雨みたいでもある。どちらかっていうと恵みの雨。オレみたいな強姦魔にも降り注ぐ。双葉が逸れた道に行きたがらない理由を全部輪太郎オニイサンを言い訳に使ってるみたいに思ってた。でも違う。確かに澄んでいる。これを濁したくはない。手の中でそっと守りたい、儚さも持っている。なのに双葉はそれを壊したがった。そしてオレが壊した。
「双葉から聞いてるかも知れないけど、俺は双葉たちとは母親が違う」
それは初めて知ったことだ。双葉はそんな話していなかった。だからこそ変に映った、兄への執着心が。
「新しい母親とは上手くやっていけてるとは思うけど、でも少しだけ、ちょっとだけ狭い」
「…そうっすか」
何と答えていいかは分からなかった。ただ多分、家族には吐露しないことなんだろうなというのは思った。
「もっと厳しい環境にいる人はたくさんいると思う。親がいなかったり、家族がいなかったり。何を甘えているんだろうと思っていたが…」
「他のやつらのことなんてカンケーないっしょ。それはあんたの感情でしょうが。他の誰のでもなくね。だからつれーならつれーし、痛いなら痛い。悲しいなら悲しい。他のやつらの事情にランク付けしてマシだなんだなんて大した鎮痛剤 にだってなりゃしねぇって」
輪太郎オニイサンの表情が少し歪んだ。まずいな、と思った。怒られるかなって思った。そんなこと言うなよ、とか。恵まれない人たちがカワイソウだと思わないのか、とか。
「ありがとう」
輪太郎オニイサンはそう言った。ちょっとしゃくりあげて聞き取りづらかった。
輪太郎オニイサンが作った晩飯はどれも美味しそうだった。にんじんの入っていない肉じゃが。大根おろしの乗っただし巻き玉子。冷奴。ししゃもフライは買い置きの惣菜だったがカリカリなのはさっき輪太郎オニイサンが揚げ直していた。
「今日だけカロリー高めだ」
輪太郎オニイサンがにこっと笑ってオレはなんか、うわぁ…って胸が熱くなった。目の前にマヨネーズが差し出され、オレはマヨネーズと輪太郎オニイサンを交互に見た。
「マヨネーズ、なんでもかんでもかけるんだろ?」
「いや、あれはたとえ話だから!」
輪太郎オニイサンは笑う。話覚えていたのが嬉しかった。
「コーラ飲むっしょ」
「…」
「今日はちょっとだけ悪ぃ贅沢すんだ。もしかして炭酸苦手?飲まない?」
「…飲む」
かわいいな。素直に思った。
食後すぐにまた台所を借りるというから真面目だなぁ、と思っていた。皿を洗いながら何か作っている。ポンポンポンポン充電器で復活した端末がまたうるさく鳴った。誰かは言わなかったがバッテリーがある程度持ち直し瞬間数十件の着信とメッセが黒い画面に浮かんだ時は戦慄した。嫉妬深いカノジョかも知れないと思ったが、今度はリアルタイムで着信音を聞いてしまい、関係無いオレも滅入ってしまった。
「君」
「永斗って呼んで」
「エイトくん」
「えいと!"8"の英語じゃなくて、"永遠"の"永"に北斗七星の"斗"」
「永斗」
「照れるな」
「照れるな!」
輪太郎オニイサンも照れていた。
「にんじん、もうすぐでダメになりそうだったからケーキにしたんだけど、食べるか?」
輪太郎オニイサンはケーキの乗った皿を出す。いつの間に。食べなければ明日の双葉の弁当になるらしい。オレンジの点々が見えるきつね色のカップケーキ。
「食べる」
輪太郎オニイサンは安心したらしかった。オレはカップケーキを口に入れた。まだ温かい。にんじんの味はしなかった。
「めっちゃ美味しい。オニイサンとならトマトも梅干しもグリーンピースも食えるようになりそ…」
「それはよかった。残すのは気が引けるが、嫌いなら無理矢理食べる必要もないだろう…偏りすぎも健康面で心配だが」
「でも双葉は好き嫌いないよ」
「双葉はしいたけ苦手なんだ。たまに入れちゃうけどな。残さず食べてくれるから、つい嬉しくて」
「マジか。双葉しいたけ嫌いなんだ!?」
「絶対双葉には言うなよ。参考までに」
「分かった。ナイショな」
にへっと笑うと輪太郎オニイサンも笑う。
風呂に入って、オレの部屋に来客用の布団を敷く。父親の寝間着を身に着けた輪太郎オニイサンさんが顔を強張らせてオレに迫っていた。さっきまで談笑していた。レイプされた人とレイプした人の普通は越えることなんて出来ない境界を越えて。
「ここまで世話になっておいて何も話さないのは、なんか俺の気が引けるから、話す」
「う、うん」
「一枚 に関係を迫られるんだ。それが嫌で…逃げてきた」
「なっ、」
「気持ち悪いか」
「いや、分かんねぇ。驚きのがデカい」
「…君に言われた通り、慣らそうと思って、そこを、見ら…れて…」
「…慣らしたって…」
「痛いの…嫌だから…」
「…マジかぁ」
輪太郎オニイサンの突然の告白にオレはまるで他人事だった。あの女好きしそうで女泣かせで実際鳴かせてそうな腹黒そうな計算づくっぽい綺麗めだけど狙ってるっぽい女みたいなイケメンが、輪太郎オニイサンに迫ってる?実は心も女だったとか?双葉のブラコンもやっぱりちょっと歪んでるのか?変だ変だとは思ったけど?あれこれと混乱する。双葉との会話。
「教えて、ほしい…」
「な、にを…」
ぐいっと輪太郎オニイサンがオレに前のめりで迫ってきた。その分オレは背を逸らす。
「痛くない…その…」
「ちょっと待って?え、痛いのが嫌なの?え?」
「…弟に迫られるのは嫌だけど…逃げられないだろう、家族なんだ」
「だから受け入れると」
「俺は弟を拒否しきれない。きっと。それなら…」
「なるほど」
輪太郎オニイサンはそのままさらにオレに迫ってきた。
「君にしか頼めない」
「オレは、反対!そのまま弟を性欲魔人にして放っておく気か!」
「…一枚 は色んな女の子を傷付けてる。この前女の子が泣きながらうちに来た。それならその欲を受け止めるのは兄の俺しか…」
「正気 っすか!」
輪太郎オニイサンの眉間が歪む。情緒不安定なのかそうか。
「なら、ほかにどうすれば…」
「オレは双葉と約束したんだわ、オニイサンに変な真似しないって」
「…ッ」
「変な真似はしない。もう無理矢理オニイサンを抱くようなことは」
オレの視界が暗くなる。温かい。オレの母親が愛用してる洗剤の匂いと、母親が買ってくるめっちゃ安売りの弱酸性ボディソープの香りと、双葉から時折する多分双葉ン家 の匂い。鼻先に感じる柔らかい布。鼻の骨が潰れるかと思ったけど布の奥の空気しかない。中年太りの父親の寝間着は引き締まったこの人にはある意味ぶかぶかだ。輪太郎オニイサンはオレを抱き締めていた。
「弟に抱かれるくらいな君に抱かれたほうがずっといい…そう思っていた」
オレ、双葉にもこんなことしたことないんだけど。
「でも今日、君といて、安らいでしまった」
すっげえ文句。オレも双葉に言おうかな。
「君は俺をレイプしたくせに、どうしてそう優しいんだ」
寝そう…じゃなくて。オレ優しくした?双葉ン家 、輪太郎オニイサンにどういう扱いしてんだろう。
「優しくしたか?」
「うん」
「うん…って…かわいこぶんな。あんなつらそうなカオしてたら大体厳しくは当たれないって」
「すまない。君は双葉のカレシで…」
身を剥がそうとした輪太郎オニイサンを今度はオレから捕まえる。
「双葉はオレのことカレシだなんて思ってねーから」
輪太郎オニイサンの躊躇いがちな腕を掴んで背に回させる。
「そんなこと言うな。俺は君になら双葉を…」
「双葉、双葉って。ムードないなぁ」
「君だって双葉、双葉言うじゃないか…」
「しょーがねぇじゃん。オニイサンのことじゃないと双葉喋らねーんだもん」
輪太郎オニイサンの声が気持ちいい。マジで寝る。これマジで寝るわ。
「明日なんったら多分忘れるし言わないけど、また来たらいいよ、逃げ場ないなら」
「…」
「そん時は靴履いてきてね」
「バカにするな…」
多分偶然。でこが柔らかかった。
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