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第40話 ニオイ

 なんだこれ、そう思って、足が躊躇った。 「こっちだよ」  連れてこられたのは和臣が行き着けにしているバーのある通りをずっと進んだ先、飲み屋の明かりが点々とし始めた頃、綺麗とは言えないビル。その階段を降りた地下の、扉だった。そこを開けた瞬間、受付があって、上から下までじっと見つめられる。  代金はおごってもらった。笑顔で、柔らかい物腰なのに、喧嘩慣れしてる俺のほうが腕っぷしなら強いはずなのに、その笑顔に、ビビった。  笑いながら、散歩でもするように細い廊下を進んで行く。男二人は並んで通れないような細い廊下を。  途中で男が立ってた。通りすぎるのに少し身体を傾けないといけなくて、横切りながら、向けられる視線にぶつからないように手元ばっか見てた。普段だったら、これが地元だったら、普通に見返してたけど、この空間の雰囲気が俺を俯かせた。そんな場所なのに、こんな、ハッテン場なんてところで、和臣のセフレだった人は綺麗に微笑んだりなんてしている。俺にはできそうもない。 「ここが休憩所、かな。一応、喫煙所ってなってるけど。あ、自分の名前とか名乗らなくていいよ。もしも気に入った感じの人がいて、目が合ったら、たぶん、向こうから話しかけてくると思うから」 「あ、あの」 「気楽に楽しみなよ」 「いや、俺はっ」  手を引っ張られそうだったから、慌てて背中に隠した。その様子にその人はクスッと笑って肩を竦める。 「そう? 君ならけっこう声かけられそうだけど」  こんなところに、和臣は来たことがあんのか。こんな。 「!」  その時、どこからか聞こえた、やたらと甘ったるい悲鳴。 「っぷ、すごいね、ここまで聞こえてくる喘ぎ声とか、どんだけ激しいんだろ」  誰かがここのどこかでセックスしてる。間仕切りがあって、大小色んな部屋があって、空いてるところは好きに使っていいんだと。ここでしてもいいし、ここがイヤなら場所を変えてもいいんだって。名前も知らない、見た目と、どっち役をやるかだけで、セックスの相手を探せる場所。 「あ、ああいう感じの人とかは?」 「いや、あのっ」  指をさして教えてくれた先には若い男がひとり立ってた。茶髪で、今風で、背も高そう。 「気に入ったら、目が合うまで見てて。そしたら、ほら」 「俺は、ここにそういうのが目的で来たわけじゃねぇからっ」  そこで慌てて俺は俯いた。それが断る合図にもなるみたいだから。 「和臣とはここで知り合ったんだ」 「!」 「ちょうど今、俺たちがいるこの休憩所で目が合って、彼のほうから声をかけてきた。見た目が気に入ったみたいで、頬に触れながら、そのままキスして」 「……」 「そのキスが上手かったから、相手したんだ」  この少し開けた場所で? タバコ、あいつは吸わないのに、こんなタバコくさい場所で? そう思ったら、スッと気持ちが静かになった。 「どう? 和臣って、そういう男なんだよ。でも、そんなもんじゃない? 男同士なんだから、性欲のままセックスだって」 「あんた」 「欲に任せてしたい時にすればいい。って、は? ……何? なんで、そんな……」  和臣の昔の遊び相手だったその綺麗な人が目を丸くして、俺を見てた。笑ってた顔が急に引きつって、そして、睨んでる。 「可哀想に……」 「なっ!」 「こんな」 「はっ! はぁ? なんで、お前が涙ぐんで」 「だって、こんなのじゃ」  和臣もこの人も、こんなのところで、何してんの? 「気持ち良くなんてなれねぇじゃん」 「!」 「ちっとも……」 「ふっ、ふざけんな! なんなんだよっ! 純情ぶって、お前が好きになった男はこんなとこでっ」  知りたかったんだ。俺は欲張りだから、あいつのこと全部知っておきたかったんだ。どんな和臣の事だって、俺は。 「お前みたいな奴になんで! 俺がっ」  手を振りかざして、ビンタ、されると思った。でも、ビンタされてもいいと思った。むしろ、されたい。  バチーン!  そう音が鳴り響いて、けど、俺はちっとも痛くなくて、それどころか、目の前にはアッシュブラウンの髪があって、タバコの沁み込んだ空気をサッと払いのけてくれた石鹸の清々しい香り。 「……ぇ?」  和臣のシャンプーの香りだ。 「和臣っ! なんで、お前がここに!」 「それは……こっちのセリフだ。剣斗。お前」  思いっきり、男の腕力で引っ叩かれた和臣がよろけて、その時、和臣の肩越しにその人の驚いた顔が見えた。信じられないものを見るように、眉間に皺を寄せて、渋い表情で、俺の目の前に飛び込んで代わりに叩かれた和臣を見てる。 「な……なんで、和臣」 「キョーヤ、さっき、マスターがあんたと剣斗が並んでこっちに歩いてくとこを見たんだ。ちょうど探しに俺も外出てて、慌てて来た」 「なんでっ!」 「もうこういうの止めたんだ。悪いけど」  綺麗な人が、なんか、萎れた花びらみたいに力を失っていく。 「散々、遊んでおいて、なんだけど、こいつには、剣斗にはちょっかいを二度と出すな」 「!」 「次、剣斗に何か仕掛けて来たら、次はその綺麗な顔に傷がつくと思って。何か文句なり言いたいことがあるんなら、俺にして。そんで、剣斗、お前は帰るぞ」  グンと腕を捕まれて、そのまま連行された。こんなん、前にもあったっけ。仰木に泣いてる理由を打ち明けてるところに和臣が来てくれて、さらってくれた。あれはウソをついてた和臣が悪いけど。今回は――。  胸いっぱいにひとつの言葉が詰まっていく 「ごめん」  廊下に男が数人いた。さっきの休憩所にも痴話喧嘩を見学にしに数人が来てた。冷やかしの言葉と、誘い文句が投げられるけど、それを全部跳ね除けて、ただ和臣に連れられて店の外に出る。 「ごめん、和臣」 「……何に謝ってんだ」  あそこ、臭かった。怖かった。なんか、イヤだった。 「遊びまくってたろくでもない過去を無理矢理知ろうとしたこと? キョーヤについていって、行くなって言われたハッテン場に行ったこと?」 「……」 「剣斗」  呼ばれて顔を上げる。 「……引いた?」  和臣の声が震えてる。 「あんな場所に通ってたって知って、引いた?」 「……引かない」 「……」 「違うんだ。そうじゃなくて、ごめん」  怖かった。イヤな気持ちになった。俺も、和臣も。 「引かねぇよ」 「……」 「ホント、ごめん」  だって、あそこはきっと和臣にとってイヤな思い出がいっぱい詰まってる場所で、ニオイできっとその時の自分が蘇ってきたと思う。どっかで聞いたんだ。ニオイって一番記憶に直結してんだって。だから、あの独特なニオイは奥に締まったはずの痛いのと、苦しいのと、悲しい気持ちを引っ張り出してきちまう。 「ごめん、和臣」 「っ」  だから、せめて鼻に残るニオイの記憶が俺の匂いに代わるように、ぎゅっと抱き締めた。その鼻先が俺の肩に埋まるように、背伸びをしながらきつく抱き締めていた。

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