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第62話 氷の雫
きっぱりとそう言い切ったあと、京也さんがそっぽを向きながら、また革の切れ端を指先でなぞり始めた。頬杖をついて、目を細めながら。
「……なるほどね。大した玉だ」
「え?」
「んーん。なんでもないよ」
さっきの即答で否定した時の、凛々しくて男らしい声が変わった。明るくて、少し高い京也さんのいつもの声に。
「そうね。好き、にも色々あるからさ」
「……色々」
「そ、色々。だから、その元彼なりの、好き、なのかもねぇ」
「……」
ふと、大粒の綺麗な、綺麗な、涙を思い出した。綺麗すぎて、スワロフスキーを頬にくっつけたお人形みたいな涙。
「けど、人それぞれじゃない? 剣斗君の持ってる、好き、は、剣斗君にしか持てない、好き、でしょ」
「……」
「信じる、って行為は難しいよね。何より難しいと思うよ」
「?」
「頑張れ」
頬杖をついたまま笑ってた。
「俺は、あの時、ハッテン場で見せつけられた、君らの、好き、を信じるよ」
「……」
「にしても、その元彼、すごい美人だった? 俺よりも? 俺、あの界隈じゃけっこう上位の美ネコだと思ってるんだけどなぁ」
「あ、えっと、はい。すごい美人でした。もちろん、京也さんもすげぇ美人です」
あんなに綺麗な男がいるんだって思った。京也さんも美人だけど、でも、今は中身を知ってるからかな。すげぇカッコいいって思う。
「そっかぁ。でも」
俺はあの人よりも、カッコいい職人の顔もある京也さんのほうが――。
「でも、俺は、剣斗君のほうが数百倍綺麗だと思うよ」
頬杖をついたまま、朗らかに笑って京也さんがそう言ってくれたけど、俺は到底その言葉を信じられるわけがない。あまりにありえなくて、苦笑いしか溢れなかった。
俺の「好き」を、和臣の「好き」を京也さんが信じてるって笑ってた。あの元彼の持ってる「好き」は違うって言ってた。そりゃ、そうだ。俺はあの元彼みたいに、和臣のためなんて、そんなふうに思えない。そんな立派な考え方なんてできそうにねぇ。
だって、今、自分の部屋の電気がついてるのを見上げて、心底、ホッとしてる。
和臣のことを取られたくないって、必死だ。
「ただいま」
「あ、おかえりー」
玄関開けてすぐ横に小さいけどキッチンがある。リビングにいると思って帰ってきた俺は、すぐ隣で「おかえり」の返事がして、ちょっとびっくりした。
「……何、してんの?」
「んー? 飯、作ってんの」
「なんで?」
「剣斗に食わせてやりたいから」
「それ……魚、どうしたかったの?」
その手元には、とても小さくなった魚の切り身。
「あははは。三枚おろしにしたかったんだけど、これ、難しいのな」
「だって、うち、魚さばく用の包丁ねぇし」
「え? そんなんがあるのか!」」
「あるよ。身、綺麗にきれないだろ?」
その包丁で魚さばくのはちょっと大変じゃね? でも、頑張って飯作っておいてくれようとしたことが嬉しくて、自然と笑い顔ができた。
「貸して。このサイズの魚なら指でもできっから」
「指?」
「うん」
そして、笑ってなかったなぁって、今、気が付いた。
「こうして……そんで、こっから指で」
「すげ」
「ほらな。そんで、今日、何にしようとしてたの?」
「あー特には。照り焼きかなぁ。ソテーとか?」
「ソテーね。オッケー」
そしたらドライバジルがあったから、それ使って、あ、小葱ってあったよな。それでソース作るか。
「あとは、サラダ? あ、ジャガイモあったから、ポテトピザとかは、…………」
冷蔵庫の中漁って、振り返ったところで頭を撫でられた。安心したような笑顔で、優しく髪に触れて、そんで、頬をゆっくり丁寧に触ってくれる。
「いつもの剣斗だ」
「……」
「俺が飯作るから。剣斗は風呂入ってこいよ」
俺、そんなに笑ってなかったんだ。花火大会の後からずっと、元彼のことが頭から離れなくて、怖くて、和臣の近くにいたくて、身体が強張ってた。きっと顔もそうだったんだろ。
ごめん。
心配かけて。
怖くてさ。
――僕だけ、だったんだ。今も。
今も――そこで言葉は途切れたけど、何が続くのかくらいわかる。「僕だけだったんだ。今も……好きだったのは」そんな言葉が続いてさ、そんで。
「……」
そんで、怖くなる。怖がる必要なんてないのに、怖くなるんだ。シャワーを頭からぶっかけても、ちっとも洗い流れない、想像したくもない光景。
「クソっ」
もう何回も言い聞かせたのに。和臣に好かれてるってちゃんとわかるのに。感じるし、伝わっているのに。なんで。
「……はい」
シャワーを出ると扉の向こう、リビングのほうから声がした。料理をしててくれるはずの和臣の声だけだから、電話で話しているらしい。
「もう、決めたので」
決めた? 何を? 誰と話してる?
「このタイミングを逃したら、ずるずる続きそうだから」
何の話を?
「ずっと最近は考えてたことだし」
何を……考えてた? ずるずる続けるって? 考えてたことって? それはまるで。
「……」
別れ話みたいに聞こえた。
わかってるよ。すげぇ好きでいてくれてるって。大事に思ってくれてて、心配してくれてるってさ。じゃなきゃ晩飯作ろうなんて思わないだろ。あんなに優しい顔で頬撫でたりしないだろ? そう思うのに。思えないんだ。
したくもない想像がすぐに必死に掴んでるロープをちょん切って底へと俺を落っことす。
「もう、ここで、区切りつけて新しく」
ドアの向こうから聞こえる和臣の声にこんなに恐怖する。片方だけの言葉、全部なんてわからない会話、それなのに、鮮明に目の前に再現される光景にこんなに身がすくむ。
一瞬で凍りついた。髪の先から落ちる雫が氷になったのかと思うほど、ひどく冷たく感じられて、身体が寒さに震えた。
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