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「ひねくれネコに恋の飴玉」 1 初恋は遥か遠く

 分厚い身体だった。思いっきり体当たりしたのに、生意気なくらいにびくともしなくて、そんで――めちゃくちゃ初恋の人に、似てた。  心臓が止まるかと思った。彼が。  ――京也、愛してるよ。  彼が来てくれたのかと。 「京也さーん、掃除終わったんで、俺、そろそろ」 「……」 「京也さん?」 「! うわああああ!」 「……夏バテっすか? もう、ちゃんとしてください。そのうち、革じゃなくて指切りそうなんすけど」  び、びっくりした。びっくりしすぎて、彼の面影が吹っ飛んじゃったじゃんか。 「そだ。京也さんはタコ焼き機って持ってます? あれ、いいっすねー」  あの人の面影が。何年前とか数えると、ぞっとしそうだからやめておこう。とにかくすごく昔の、俺の初恋の人。 「でも、ひっくり返すのが案外難しくて。和臣はそういうの器用ですげぇし。まぁ、仰木は当たり前なんすけど。あいつは普段から使ってるし。俺だけ、すげ、下手くそでちょっと悔しかったんすよ」  キラキラ、ふわふわ、俺の初恋。 「けど、めっちゃ美味かったー。んで、京也さんも次一緒にどうっすか?」 「んー……」  ずっと、心臓バクバクで、見てるだけでも毎日ハッピーでさ。だから声なんてかけられた日にはもうずっと足が地面から約一センチくらいは浮いているようなそんな心地。  ――宇貝(うかい)。  ただ、苗字を呼ばれただけで、世界が光り輝いて眩しく感じられたっけ。 「急なんすけど、明日とか、どうっすか? 京也さん、空いてます?」 「んー」 「よっしゃ」  俺の可愛い愛弟子となった剣斗君の初恋は和臣なんだってさ。あまりにキラキラで、真っ直ぐ、恋をしてますっていう瞳が懐かしくて、けれど、もう自分にはないものだから羨ましくてさ。だって、もう俺の初恋は終わっちゃってる。初恋っていうのは、他の恋とは違っててさ、「初」なんだ。人生で一度きりしかない。だからもう俺はそれをできない。そう思ったら羨ましくて、ちょっと意地悪をしてしまった。 「そんじゃ、また、明日来ます。おつかれしたー」 「んー……って、ちょ! 剣斗君! 挨拶はしっかりと! 社会人としてのっ…………」  大きな声は少し高くて、少し、弾んだ感じで、剣斗君がいると急に騒がしくて。 「……あの子は、嵐ですか?」  バーっと飛び込んで来て、ガヤガヤと騒いで、そして、帰った後はとても静か。  ――京也はいっつも慌ただしいなぁ。  俺も、あの当時はそんな感じだったのかな。彼に名前で呼ばれた時、俺の足元は一センチじゃなくて、少なくとも二センチは浮いていたはず。ふわふわ、キラキラ。  ――でも、そんなお前が可愛いんだけどな。  それが俺の初恋だった。  高校三年生の夏休み明け、その恋は突然、目の前に現れた。  ――教育実習生として今日から短い間ですが、皆さんの先生を務めさせてもらいます。福谷壮介(ふくたにそうすけ)と言います。  華奢だった俺には壮介がすごく大人に見えた。大きくて、男らしくて、短髪に爽やかな笑顔がよく似合ってて、一目見た瞬間、きゅんとしたんだ。  女子人気高くて、俺は到底近づけなくて。でも、同性の自分が彼にどう見られるかなんて、わかりきってたから、見てるだけで幸せって思ってた。ホント、見てるだけでも充分嬉しくて楽しくて、彼の受け持っていた歴史の時間が、毎日の朝礼とホームルームが待ち遠しくてたまらなかった。  ――宇貝、悪い。ノート運んでくれないか?  だから、そう名前を呼ばれて、手伝いを頼まれた時はその場で卒倒しちゃうかと思ったよ。  ――悪いな。  笑ってくれた。たくさん生徒がいたのに俺に声をかけてくれた。ただただ嬉しくて、胸のうちで、自分の名前を何度も何度も彼の声で再生して。  ――京也。  恋をしたんだ。あっという間に恋に落ちた。放課後、手伝いますって、あの時は、そう、たしか授業で使う冊子を作るのを手伝ってた。熱心に教えてくれる先生の手伝いがしたいなんて言って、本当はただ壮介のそばにいたかっただけなんだけれど。夕暮れで、真っ赤に染まった社会準備室で。  ――夕陽よりも真っ赤だな。京也。  それが俺のファーストキス。  ――可愛いよ、京也。  頬を撫でてくれる手を必死で掴んでた。  ――京也っ、愛してるよ。  そう言いながら、何度も何度も、俺の中を。  俺の初めてだった。名前を呼んでくれると切なくなって、恋しくて、苦しくて、彼の裸の肩越しに窓から見える星空がキラキラしてた。でも、俺は生徒で、彼は教育実習生で、いつか、さ。来ちゃうんだ。  ――短い間でしたが、皆の先生として過ごせたことは私の宝物です。  人目もはばからず泣いたっけ。  ――バカ、泣いてただろ? 朝礼の時。ホント、可愛い奴だなぁ。京也は。大学戻って落ち着いたら連絡する。遠恋なんて平気だ。京也のこと、愛してる。だから、しばらく、我慢な。  素直に受け入れて、素直に、待って、メールで我慢して。でも、そのメールすらだんだんと頻度は落ちて、ゆっくりと、ふわりと、俺の初恋は終わったんだ。終わりがどこだかわからないくらい、そのうち消えてっちゃったから、終わり切れ目が見えなかったから、どこか曖昧で、ずっと、まだ――。 「もおおお。俺、ちゃんと言ったじゃないっすか! 昨日! たこパーしましょうよって、そしたら、京也さんが、うー、とか、あー、とか、んーとかって返事したんじゃないっすか!」 「ねぇ、それって、返事って言わなくない?」 「社会人として、返事くらいちゃんとしてくださいよ」 「んが! ちょ! 剣斗君、昨日のお疲れって挨拶のっ」 「はい。着きました」 「はい?」  気がついたら、到着していた、茶色のレンガ調が可愛い小さなアパート。そこの一階、自転車置き場の真ん前の部屋のチャイムを剣斗君が鳴らして、そして。 「おーい、俺!」 『……あぁ』  中から、インターホンのノイズ混じりの声が聞こえた。低くて、ぶっきらぼうで、ちょっと怖そう。 「お疲れ、剣斗」 「おう! 和臣は後で来るっつうから、そしたら、俺、一回迎えに行ってくる」 「あいつ、来んのか」  短髪で、眉間に皺が寄ってて、声だけじゃなく顔も怖そう。 「……ども。剣斗がいつもお世話になってます」 「……あ!」  そんな彼は、ニヤリと笑って、スッと通った、自分の鼻筋を骨ばった長い指でなぞった。 「ども。鼻、折れてなくてよかったっす」  初恋の、えっと、その、俺がこの前、体当たりをした、あの彼だった。

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