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「ひねくれネコに恋の飴玉」 22 花の涙

 帰りますよ。  そう答えた。明日、帰ります。父が怪我をしたと聞いて飛んで帰ってきたけど、でも、大丈夫だったので――壮介にはそう答えた。 「……ふぅ」  トイレの洗面所で溜め息を零す。流しの台のところに手を置いて、俯くと、くらりと頭が揺れた。けっこう酔ってる、よね。足元もちょっと危ういし。  すごい量飲むんだよね。こっちの人ってさ。なんでそんなに飲めるわけ? 君たちの肝臓大丈夫? って思うレベルでのんべぇが多いんだ。 「あー……喉痛い」  一つ咳払いをして、小さく声を出してみた。どこの水商売さんですか? すごい声が掠れてる。柚葉に電話できるかな。っていうか、もう時間が時間だから寝てるかも。柚葉の実家もうちと同じレベルで早寝っぽかったから。 「おっと……っと」  またふらついた。足元が危なかっしいから、トイレのタイルに寄りかかり、スマホを手に取った。酔っ払ったまま電話するのは、あんまり、でしょ。それこそ悪い大人っていうかだらしない奴って思うかもしれないし。年上でさ、ほら。 「……高嶺……ねぇ」  俺ってばそう思われてるらしいから。呆れられそう。  だって実物はそんな素敵なものじゃない。君の声が聞きたい、会いたい、ねぇ今何してる? なんて思っている、恋愛に不慣れなダサい年上だよ。誰といるの? なんて、心のせっまーい余裕のない大人。こんなへべれけで君に電話をしたら、絶対に「会いたい」なんて口走ってしまう。酔っ払いの戯言なんてさ。ダメでしょ。距離考えなよ。こっちは飛行機で空飛んできたんだ。  びゅーん、って。  その距離を考えてください、でしょ。 「……」  けど、それでも何か告げたくて、文字ならアルコールとドンちゃん騒ぎに掠れた声を聞かせずに済むからって。 「彼氏に電話?」 「!」  スマホを取り上げられた。驚いて、酔っ払いの狭い視界の中、犯人を追いかけた。 「……壮介」 「皆もう帰るよ」 「知ってる。俺も帰るし。ね、スマホ、返して」 「帰るの?」  手を伸ばすと、スマホを高いところに遠ざけられた。 「帰るよ。さっきそう言ったじゃん。ねぇ、返して」  子どもだった頃の俺には届かなかったかもしれない。でも、今はもう、ちゃんと届くんだから。 「っ」 「相当、飲んでたね」  手を伸ばしたら、寄りかかって呆けていた足元がくにゃりと力なくバランスを失った。 「っと……細いなぁ、相変わらず」  そのくにゃくにゃな俺を壮介が受け止めて、上品な香水が仄かに鼻先をくすぐった。大人の男、上等な――色気のある大人の。 「それと……相変わらず抱き心地の良さそうな身体だ」 「!」  慌てて、壮介から離れると、勢いに身体が勝てず、背後にある取り付け式で出っ張っていた洗面台に腰を打ち付けそうになる。 「ほら、危ないなぁ」 「っ」  また掴まった。二の腕を片手で掴まれて、もう片方の手で腰を引き寄せられる。触れ合った下腹部に背中を仰け反らせると、そこが、触れた。 「……京也」 「っ」 「送ってあげるよ」  ――京也、送ってやる。  車で、したことがある。学生服では入れるラブホなんてなくて。車のままでは入れるけれど、でも、どこで誰に見つかるともわからないから。私服なら遠出をしてしまえばいい。でも制服じゃ、ちらりとでも見かけられたらどこの高校の生徒なのかってバレてしまう。だから、車の中で、壮介に抱かれたことがあった。教育実習の短い間に溺れて、教わったばかりの快楽を貪欲にあじわった。 「ちょ、やめっ」  ――壮介ぇ、ぁ、ン……好き、大好き、好き、好き。 「遠慮するなよ。俺たちの仲だろ?」 「っ、やめっ」  好きだって何度も何度も言ったんだ。初めての恋に、快楽に必死になって抱きついてた。  ――俺も好きだよ。京也。  けど、好きだって、答えてもらったことは一度もなかった。 「好きだよ? 京也、今も」  一度も、好きって、言われなかった。本当の、好き、はもらったことがない。 「っ、離せっ!」  突き飛ばして、自分もその反動で洗面台に腰から激突した。 「……何? もしかして、恋人の操を立ててる、とか? こんなエロい身体してんだから、相手男だろ?」 「……あいつは、違う」 「っぷ、何? まさか、本当に操を立ててるの? 俺、てっきり、シカトしてたことに拗ねてるのかと思った」 「壮介」  初恋だったんだ。大事にしたかった。  誰にも打ち明けられない気持ち、持っちゃいけないんじゃないかと思っていた好意、それに、浅ましい気がして罪悪感ばっかり募る性欲。そんな全部を壮介との初恋が許してくれたって思えて、嬉しくて、すごく大事にしたかったのに。 「禁断の恋っていうのは盛り上がって楽しかった。京也だってそうだろ? すげぇ気持ち良さそうにしてたじゃん。俺も気持ち良かったし。それでいいでしょ」  だから、あの成人式の日、見た気がしたけれど、見なかったことにしたかった。壮介のことなんて、あの日見つけなかったことに。初恋の人をずっとずっと思っている俺のことなんて知りもしない赤の他人ってことにしておいたんだ。焦がれ続けていたせいで、背格が似てればみーんな、壮介に見えちゃったんだ。きっとそう。そう思って。 「でも、さすがにさ高校生相手にいつバレるかもわかんないことしてられないでしょ。あのくらいの期間がちょうどよかったんだって」 「……い」 「? 何? 聞こえなかった。けどさ、久しぶりに見たら、すげぇいい感じに成長してるんだもん。お前だって、俺と別れてから、相当遊んだんじゃない?」  甘酸っぱい初恋、で片付けたかったのにできなかったんだ。不器用でさ。そんで、恋なんて嘘っぱちだ。だって、壮介はもう俺のことなんて忘れてる、俺はこんなに好きだったのに。恋なんて、もう、って自棄になったりして。 「その遊んだ中で、俺とした学校でのセックスは何位くらいに気持ちよかった?」 「……い」 「あの時よりも気持ちイイセックスした? なぁ」 「うるさいっ!」  不器用すぎて笑える。 「可哀想な男」 「……は?」  大事に、したかったのに。お互いに良い恋だったね。良い思い出だねってしたかったのに。 「俺も、大概ダメな奴だったけど、もう、そういうの、今は、してないから」 「……」 「気持ちイイならそれでいいじゃん、とか、バッカじゃないの?」 「……おい」 「返して。俺のスマホ」  バカ野郎で不器用で。 「壮介としたセックスぜーんぶ、最下位だよ」 「なっ」 「ちっとも気持ちよくなかった。だから、本当、最悪」  こんな初恋もろくにちゃんとできない。不器用すぎて呆れて泣けてきたっつうの。  最悪。本当に最悪だ。もう正月なんて大嫌いになった。一年で一番嫌いだ。最悪な思い出しかない。帰省ももうしない。いい思い出なんてない。ここになんて、もう、いたくない。 「……っ、う……っ」  なんで、同窓会の帰りにタクシーも捕まえられなくて、徒歩で号泣しなくちゃいけないんだよ。寒いしさ、疲れた。 「っ……う」  なんで、実家はこんなとこなわけ? もっと都会に住んでよ。何ここ。気軽に帰れないし、すぐに戻ることもできないじゃん。意味わかんない。 「うー……」  こんな遠いところにいたんじゃ、柚葉に……会えないじゃん。 「っ」  って、こんな泣きながらじゃ会えっこないけど。  会いたいよ。バカ、すごい会いたい。会って抱っこしてよ。会って、慰めてよ。会って、甘えさせてよ。会ってよ。会いたいよ。 「っ、うぅぅぅー……」  その場にしゃみがみ込んだ時だった。 「!」  柚葉から電話が来た。ずっと握り締めて、電話したいけどしちゃいけないから我慢して、でもしたくて、声が聞きたくて握り締めていたスマホに柚葉が電話を、かけてくれた。手の中に柚葉の。 「っ」  柚葉の名前が出て、涙がぽとりと落ちて。会いたくて、会いたくて仕方のなかった俺は、ボタン、押しちゃったんだ。通話のボタン。 「!」  多分、押した。でも、その瞬間、画面が真っ暗になって、大バカ野郎な俺の電話は切れてしまった。

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