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第9話 ヤバイやばいヤバイ

 今朝は朝から雪だった。ふわふわした大きな雪の粒がゆっくり音もなく降ってきて、シュガーパウダーみたいに至る所を白くしていく。  今朝はこの雪にすげぇムカついてた。雪のせいで、あいつが、和臣が来れなくなったら、来るのやめちまったらどうすんだよ。今日がラストなのにって、腹立ったけど。  今は、頼むからもう少し降ってくんねぇかなって、思ってる。もっとたくさん降って、シュガーパウダーなんてもんじゃなくて、分厚く降り積もった雪のせいで、和臣がうちに泊まるとかしてくれたら、めちゃくちゃ最高なのにと願ってる。  勝手なもんだ。けど、だって、授業が。 「……和臣、問題、できた」  もう、あと少しで終わっちまう。 「お、じゃあ、答え合わせするか」 「……」  和臣手製の模擬試験。あんたが素直なのか、俺が賢くなったのか、一つもつっかえることなく解けた。 「すげぇ……ここまで全部、合ってんじゃん」  赤丸をつけながら、誇らしげに笑ってくれた。そりゃ、ちゃんと勉強したからな。和臣に見てもらってんだ、予習復習欠かさなかった。 「これさ……全問正解できたらご褒美あげよっか」 「え……ご、褒美?」  くれんのか? 「そ、なんでもいいよ」  なんでも? その言葉に、思わず唾を飲み込んだ。 「お前が欲しいも……ぁ、高いのは無理だから。現実的に考えろよ? 大学生の俺ができる範囲だかんな。寿司食いたいのなら、まわるとこ。服は大通りと市役所通りの交差点にある、あそこな」  それ、量販店のすげぇ安い服屋じゃんか。欲しいもの……えっと、和臣からもらいたい、欲しいものは。 「ぉ……すげぇ、マジで全問正解」  欲しいものは。 「何がいい?」  赤ペンをテーブルに置いて、ホッとしたって感じの溜め息をひとつ、和臣が落っことした。  俺の、欲しいものは――。 「いいよ、なんでも」  欲しいものは。 「……これ」  欲しいものは、和臣の。 「……ぇ?」  びっくりしてた。なんのリクエストをされるんだろうと肘をテーブルについて答えを待っている和臣の腕を、俺が、掴んだから。 「これ、がいい」  欲しいのは、和臣の手。 「頭、撫でて」 「……」 「!」  そこで、ハッとした。無意識のうちに自分の口を突いて出た欲しい者に、自分でもびっくりした。 「そっ、そんくらいだったら、ほらっ、正月休みで高校生の俺なんかのカテキョしなくちゃならなかった、貧乏学生でも、大丈夫だろっ、や、やっさしぃぃ俺。ほら、こういうの思いやりっつうの? アハハハ」  何、言ってんだ俺。アホなのか? 頭撫でてくれとか、ガキじゃあるまいし。普通そんなんご褒美に欲しがらねぇだろ。絶対、やべぇ奴って思われた。何それ意味わかんねぇって、寂しがり屋さんかよって、笑われる。もしくは引かれる。引かない奴いねぇだろ。バカじゃねぇの? なんで、そんなこと言ったんだよ、俺は。 「っ」  けど、気が付いたら、そう言ってたんだ。オールバックにしていっつも決めてるけど、でも、和臣といる時はダラダラに力を抜いた、洗いざらしの髪だから、なんか気持ちも、そんな感じに脱力してて、つい、言っちまった。 「な、なんでもね、ぇ」  けど、素直に欲しいと思ったのは、その時、頭にパッと浮かんだのは、和臣の掌だったんだ。頭、撫でて欲しくて。 「……こんな感じ?」 「! ……ぁ、かず……」  気持ち良かったから。優しくて大きな手はやたらと心地良くて、とろけそうで。 「っ」  息が喉奥で詰まる。撫でてくれて、さっき赤丸をくれた手が髪に触れて、ペンを握っていた指が、俺の金髪の隙間に入り込む。指で、色の抜けてパサ付く髪をそっと優しく梳かれると。 「お前さ……髪、すげぇ、触り心地良いよな」 「は? そんなわけあるか。髪染めて」 「柔らかいし」 「っ」  触るだけじゃなくて、そのまま指で毛先摘んで、いじってくれたマジマジと眺められる。和臣に髪、いじられてる。 「猫っけ? でもないよな。真っ直ぐだし」 「し、知らねぇっ」  ダメだ、これ。 「赤ちゃんの髪ってこんなんかな」  なんか、ヤバい。 「すげぇ……」  何、これ。  前が、見れねぇ。  声を殺すので精一杯だった。和臣が今どんな顔をして俺の髪を梳いてくれてるのかなんて見れない。だって、首筋まできっと、今真っ赤になってる。だって、この指は。 「っ」  気持ちイイ。ゾクゾクする。ヤバイ。  指が、髪の質感を確かめるようにもっとしっかり中に入り込んで来て、これ、ヤバイ。ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ。  ヤバイ。なんか、勃ちそう。 「っ」  勃っちまう。っていうか、もう――。 「剣斗」 「っ、ン!」  耳朶を摘まれて、びっくりして飛び跳ねた。そしてその拍子に顔を上げちまった。 「!」  目が、合った。 「っ」  耳、触るな。そこ触られると、もう、ヤバイんだって。なんでかとか、どうしてとか、考える暇もない。ただ戸惑うばかりの頭と、素直に指に反応する身体。熱くて、苦しくて、腹の底んとこがジクジクする。 「あ、っ……の」  疼いて、そんで、気が付いたら、その手を掴んでた。 「……剣斗」 「っ」  俺、何してんの? なんで、手掴んでんの? なんでご褒美が寿司でも服でもなくて、頭? つか、この手?  なんで、触って欲しかった? 「あ、かずっ……おみ」  そんなの、並べたらすぐにわかる。公式もなんもいらない。会いたい、話したい、触りたい、触って欲しい、笑って欲しい、それをひとつずつ足して、足して、そしたら、イコールで、答えが出てくるだろ。全部の俺が欲しいものは、ひとつの答えに繋がる。その答えは。 「あ……俺っ」  その答えは。 「安上がりでラッキー」  たったの二文字。 「和臣っ」 「もっとたっけぇの言われると思ったから。はい。これ、解答用紙。これが満点なら大丈夫。それでなくても剣斗は真面目だから全然余裕だって」  手をそっと離された。そしてその手には代わりに赤丸が並ぶ解答用紙が乗っけられる。  たったの二文字は言わせてもらえそうもなく、和臣の話し声にどかされていく。 「にしても、すげぇ降ってんなぁ」 「和くーん!」  お袋が階段の下のところから呼んでいた。雪がすごくてこれじゃ帰れないだろう。車で送るから、今のうちに帰った方がいいって、そうでかい声で言ってる。 「帰りの用意しといてねー」  これで、終わり。和臣の授業は終わり。雪は間に合ってくれなかった。もう、帰っちまう。 「はーい」  今、気が付いたのに。もう終わっちまった。 「そんじゃ、俺は帰るわ」 「……」  俺は、帰って欲しくなくて不貞腐れた。たったの二文字を言わせない和臣にもぶすったれてた。 「……剣斗」 「そこまで送る」 「バカ、いいよ。雪だし。おばさんに送ってもらうから」  最後かもしんねぇのに。大学受かるかどうかもわかんねぇし、毎日授業してくれたのに、最後くらい笑って見送ってやれればいいのに。 「いいから。早く帰らないと、雪すごくなるかもしんねぇぞ」 「……」 「ほら、お袋、待ってるから。行こうぜ」  急かして、鞄押し付けて、俺はコートも持たずに外へ出て五秒でコートがないことに後悔したけど。  和臣は何も言わなかった。またな、も、頑張れ、も、それに頭はもう撫でてくれなかった。ただ、俺をじっと見てくるもんだから、不貞腐れてた俺はその視線を避けるように俯いてて、見たかったのに。 「はい。和君、乗って乗って」 「あ、はい。すみません。お願いします」  見たかったのに、見れなかった。  そして、ツイッターの中にいる「カズ」は、アカウントは残ってるけど、ひとつも呟かず、ずっと沈黙していた。  和臣に会いたいけど、もう、雪の日以降、会うことも、話すこともできなくなった。

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