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第87話

静かにお風呂から出て、前に置いていった自分の服を着る。新品の下着も用意されていて、リビングで拗ねているであろう風早に心の中でお礼を言う。髪も軽く乾かして、廊下に出るとテレビの音が聞こえてきたのできっと風早はテレビを見ているに違いない。 俺は玄関にほっぽり出されていた携帯をポケットに入れて、バレないように家を出る。 このまま風早の元にいたら冷静な判断ができなくなる、そう思ったからだ。 とぼとぼと帰路に着く。不意に後ろから車が走って来る音がして、振り返ると見たことのある黒い車が俺の目の前で止まった。 「え、」 間抜けな声が思わず出た。運転席から降りてきたのは佐野さん。着こなされたスーツに黒光りするピカピカの革靴。頭のてっぺんからつま先まで気を抜かない佐野さん、どうしてここに・・・? 「幸さん、お忘れ物です」 ピカピカの佐野さんには似合わない俺のボロボロなスクールバッグ。差し出されたそれを俺はギクシャクとしたお辞儀で受け取った。 「あ、りがとうございます・・・」 「そんなに緊張なさらなくてもいいんですよ」 ふっ、と佐野さんが笑う。笑うのも上品だ、彼に気を抜くところはあるのだろうか。 「幸さんはこの後用事はありますか?」 風早とちょっと居づらくなったから考え事したいなんて、言えないよなぁ。 何も言えず黙っていると佐野さんがまたふっと笑う。 「愚問でしたかね、坊ちゃんのこと僕がお教え致します。会って欲しい方もいるのでよければ乗ってください」 パカリ、と車のドアが開けられる。俺は一瞬戸惑ったが、大人しく佐野さんに従っておこうと車に乗り込んだ。今思えば俺は少し誰かに吐き出したかったのかも知れない。 ・・・会って欲しい人って誰なんだろう。 車に乗り込むと、バックミラー越しに佐野さんと目が合った。なんとなく、すぐに目をそらす。整髪料の匂いがふんわりと鼻をかすめた。 あ、風早と同じやつだ。 決して気まずい無言ではなかった。静かに流れる聞いたことのないクラシックが、さっきまで昂ぶっていた俺の気持ちを抑えてくれる。 窓の景色がいつの間にか俺の知らない景色に変わっていた。 「坊ちゃんから何か聞きましたか?」 佐野さんが静かにそう言った。 風早が教えてくれたというより、栗原との言い合いで知ったというか。うまく答えられない。俺は変な顔をしてたのか、佐野さんが困ったように笑う。 「ま、・・・末期の癌だって」 お婆さんが、と小さく付け足した。それに、お見合いの相手、風香。単語が一つ一つポンポンと頭に浮かんで、何も考えずにひたすらに並べ立てた。 俺の呟きを聞いた佐野さんが大きな大きなため息をついた。 「坊ちゃんはそれについて説明を?」 「・・・あ、あんまり」 「お祖母様は二重人格なんです。これについては、直接聞いてください」 佐野さんがゆっくりそう言って、車が止まる。カバンを持って、車から降りると前に来たことのある大きなお屋敷がそびえ立っていた。 「ここ・・・」 「はい、本家です。お祖母様がお待ちですよ」

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