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第89話

「入りなさい」 扉に向かって声をかけると、中から見知った声がした。扉がゆっくりと開かれ、中の様子が見える。大きな部屋だが、そこまで大きな部屋ではなかった。真ん中に大きなベッドがあって、そこにお婆ちゃんが座っている。 目があった。にこりと微笑まれて、前に誰かに似てると思ったのは風早のことなんだ、と今更ながらに気づく。 「こ、こんにちは・・・」 ぺこり、とお辞儀をして部屋に入る。ふかふかのカーペットで、足元がモコモコして気持ちがいい。部屋の中にはベッド以外ほとんど何も置いていなかった。まるで病室だ。 「もうちょっとこっちへいらっしゃい。顔をよく見せて」 手招きされ、俺は静かにお婆ちゃんの側へと寄った。あの時のお婆ちゃんだ、口紅を買った時の。 「この間はありがとねぇ、助かったよ」 この間、とはきっと口紅を買った時の話だろう。ふるふると首を振るとお婆ちゃんはまたにこりと笑った。 「幸さんのお陰で欲しいものが買えたんだよ。ありがとねぇ」 「お、俺ほんとに何もしてない、です・・・」 お婆ちゃんの頬が痩せこけていて、手の甲に繋がれた点滴が痛々しい。ベッドの下にいくつか並ぶ医療機器に、末期の癌だという真実が突きつけられる。 「・・・私はねぇ、別に賛成よ。幸さんと風早のこと」 そっと両手を握られる。弱々しい手に、俺は思わず息を呑んだ。 「私は賛成なんだけれど・・・。もう一人がねぇ」 二重人格だというお婆ちゃん。きっともう一人というのがあの怒鳴っていた方の人格だ。 「私の夫はね、男しか好きになれない・・・ゲイと呼ばれる人だったわ。身分の関係上子孫を残すしかなくて、無理やり私と結婚させられたの。何度か身体は重ねたけれど、子どもは出来なかったわ。彼も私のことを嫌いじゃないと言ってくれたけれど、好きとも言ってはくれなかった。夫には他に好きな人がいたの。でも私は夫を愛していたわ。・・・栗原守は、夫が矯正施設に入れられた時にできた子どもだと聞いた。そんな状態で、私も気が狂いそうになって・・・他の人格ができてしまったの」 「私のもう一人の方は、同性との恋愛が理解できないの。理解を放棄することで、考えないようにしていたの。そんな時、風早に出会ったわ。まるで夫の生き写しかと思った。夫の小さい頃にそっくりなの」 お婆ちゃんはそう言って、小さな棚から一枚の写真を取り出した。にっこりと笑っている風早が手をパーにして立っている。 「か、可愛い・・・」 思わず声に出してしまって、あ、と口をふさぐ。するとお婆ちゃんはくすくす笑って、いいのよと言った。 「ふふ、可愛いでしょう。後継にするつもりで、私は彼を育てたわ。守が出て来たことで、無駄になっちゃったけれど。私はあの子の幼少期を束縛してしまった。あの子にはもう自由に生きて欲しい・・・」 お婆ちゃんがそう言って、眩しそうに窓を見つめた。もう夕日が沈もうとしている。 「・・・提案があるの」 暫しの沈黙の後、お婆ちゃんが口を開いた。 「提案、ですか?」 俺が首をかしげると、佐野さんがゆっくりと近づいてきて袋を俺に渡した。なんだろう、と袋の中身を見るとその中には。 「こ、これって・・・この間買った・・・」 ワインレッドの口紅だった。

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