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「おとぉさーん! ほらほら、アリジゴク!」 「蟻さん、かわいそう」 いっしょに散歩にやってきた神社の境内、しゃがみこんだ幼い数也は蟻が滑り落ちていくアリジゴクにはしゃぎ、見ていられなかった由紀生はひょいっと蟻を摘み上げて救出した。 「あーあ、アリジゴクさんがかわいそう」 まだアリジゴクを見たがる数也のちっちゃな手を引いて神社を後にし、夕方の商店街を突っ切っておうちへ戻る。 「コロッケおいしそぉ、アリジゴクさんにもっていきたい」 「アリジゴクさんのことはもういいから、カズ君」 「じゃあおんぶ」 「おんぶ? はいはい」 よいしょ、と数也を背負って由紀生は歩き出す。 父親の背に負われて数也はご満悦。 ぴたっと頬をくっつけて足をぶらぶら。 「足ぶらぶらしたらダメ、靴が脱げちゃうよ、落っことしたら靴の妖精さんが悲しんじゃう」 「おとぉーさん、妖精なんて現代にいないよ?」 「……いるもん」 「妖精さんはね……いるんだよ、カズ君……?」 夜十一時まで営業しているイタリア料理店のホールスタッフである数也がその日仕事を終えて帰路についたのは十一時半、自宅に着いたのは日付が変わる少し前。 リビングの扉を開けてみればスーツの上着を脱いだだけの由紀生がソファで寝ていた。 残業でくたくたになってシャワーに入るのもさぼってダウンしてしまった父親を数也は覗き込む。 一般的な日本の親子ならばそっと起こしてやるか、風邪を引かないようふわりと掛物をかけてやるか、そんな選択肢をとるだろう。 しかし究極ファザコン息子は違う。 「……ン」 もぞりと寝返りを打ってこちら側を向いた由紀生の頬に、ちゅ、とキスを。 跪いて、こめかみにも、ちゅ。 瞼にも、ちゅ、ちゅ。 「ン」 くすぐったそうにして肩を震わせる由紀生、でもまだ目覚めずに眠っている。 オヤジかわい過ぎだわ。 さっき妖精がどうとか寝言言ってたな、なんだそりゃあ、かわいいにも程があんだろ、四十路の寝言かよ、どう考えたって幼児の寝言だろ、しかも「さん」付けだぞ、クソ。 超至近距離で由紀生の安らかな寝顔を見つめて一日の疲れをとる数也。 その内見つめるだけでは物足りなくなって。 乱れた前髪を梳いたり、唇をゆっくりなぞったり。 「ふ」 なぞっていた唇の狭間から小さな息が漏れた。 瞼に力がこもり、起きる気配を見せたが、またスゥスゥと寝息を紡ぐ。 幼児かよ。 数也は脳内で突っ込みを入れつつ、今度は由紀生の唇に、ちゅ、した。 しっとりした唇を指ではなく舌先でゆっくりなぞる。 うっすら覗いていた歯列も、ゆっくり、ゆっくり。 「んぷ」 眠りながらも違和感が気になったのか、由紀生はキスから逃れるようにまた寝返りを打って仰向けになった。 先程と比べて紛れもない火照りを帯びた寝顔。 頬は控え目に紅潮して、眉間には微かな皺、キスされたばかりの唇は重たげに息をついていて。 「オヤジ」 耳元で息を吹き込むようにして呼号してやれば、ぴくぴく震えた瞼、そして。 「……あ……カズ君……?」 眠りから覚めた由紀生は超至近距離にいた数也にパチパチ瞬きして、涙の滲む目元を擦りながら「おかえり」と疲れた声で息子をやっと出迎えた。 「あれ、全然気づかなかった……ん、なんかポカポカする……?」 「なぁ、オヤジ」 「うん?」 「勃ってんぞ」 「え?」 何が立って……。 「あ」 数也の些細な目覚まし悪戯に由紀生は我知らず反応してしまっていた。 キスされていたことに全く気付いていない由紀生は赤面し、数也はこれみよがしに苦笑してやる。 「疲れマラかよ、オヤジ?」 「わ、わからな……」 「しょうがねぇなぁ、処理してやるよ」 「あ、カズ君……っ」 スラックス越しに撫で上げられて寝起きの由紀生は切なそうに目を閉じた。 そして恐る恐る瞼を持ち上げ、たどたどしい視線で数也を見つめた。 「カ、カズ君、お父さんに何かした?」 「はぁ? してねぇよ」 「ほんと? ほんとに?」 「うるせぇな、明日も仕事……じゃねぇか、オヤジは。じゃあ急いで済ませる必要ねぇな?」 無駄に超至近距離に迫りたがる数也に問われて由紀生は、コクン……と頷いた。

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