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第2話

 まとわりつくような雨。  冬の冷たさをより際立たせるような霧の雨。口を突いて漏れ出る吐息は、白く色づいている。  雨が降ると、古傷がつきりと痛むような気がした。  髪の間を潜り抜け、僅かに盛り上がった傷痕に触れる。すっかり塞がった筈の手術痕は、この冬の寒さの中でも熱を持っているようだった。  ふと面を上げれば、陰鬱な空気に包まれた雨の夜の空気がクカの鼻孔を擽った。土の匂いが微かに乗った空気は、針のように肺に突き刺さる。  酷く寒い日だ。  更に冷え込むという予報通りならば、きっと明日は雨でなく白い粉のような雪が街を覆い尽くすことだろう。  ぶるりと身を震わせて、街灯だけがぽつぽつと並び立つ寂しい道を進んだ。閑散とした住宅街に次第に強まっていく雨の音が響いている。  そうして間もなくして、クカの家が姿を現した。都市郊外の住宅街の一角に建つマイホーム。  空虚で空しい家だ。  その中には何もない。別段、家具や調度品がない、という意味ではない。賑わいがないのだ。住む人間がクカだけなので、それも仕方のない話だったが。  建て売りの物件を購入して五年程経っただろうか。外装だけはまだ新しく、この暗い雨の夜の中でもその存在感を示していたが、それだけだ。まるで今のクカと同じだ。外見だけは立派で、中身はがらんどう。クカ以外に住む存在がいない空しい家だったが、今日は一日不在だった主の帰りを待つように玄関ホールに明かりを灯している。  微かに濡れたコートのポケットから鍵を取り出し、ペンキの剥げ始めた玄関ドアを解錠する。雨粒を滴らせる傘は玄関に立てかけ、冷え切ったドアノブをゆっくりと捻った。 「今、帰ったよ。少し遅くなったけど」  人気のない玄関ホールから声を投げかけつつ、濡れたコートを脱ぎ、ハンガーラックにそっと振り掛けた。したたり落ちる水滴が玄関ホールのタイルに小さな水たまりを造り出している。  その様を視界の端で捉えていれば、不意に、ぬっと大きな影がタイルの上に広がった。 「……や、お帰り」  と、声が降りかかる。  それは三年前に袂を別った彼女のものではない。  その声の主の方を見やれば、そこにはすらりと異様な程に伸びた背の男が立っている。そろそろ帰るつもりだったのだろう、荷物を詰めたリュックサックを背負う彼の長い首には、落ち着いた色合いの紺のマフラーが巻かれていた。 「やあ、マルク。今日もありがとう」  彼はマルク。  マルク・クラース。  クカが雇っているアルバイトのハウスキーパーだ。  激務に次ぐ激務。ブラック企業のリストに入れられているという黒い噂を持つ会社に勤めるクカは、まさしく心を亡くす程の忙しさに追われる毎日で、まともに家の事をする余裕がない。残業に残業、時には会社に泊まり仕事を続けることもある。伴侶を失ったクカに家事をこなすことは難しい。  妻と離婚した後の二年間でクカに残された邸宅はすっかり荒廃してしまった。知らぬ間に増え続けたゴミは部屋を埋め尽くそうとし、長らく食器を沈めていたキッチンシンクは見るに堪えない惨状と化していた。流石にいけないと思い立ち、友人の勧めもあって、せめて掃除だけでも、と家事代行であるハウスキーパーをネットで検索したのがおおよそ一年前。そこで見つけた近場の大学と提携して学生アルバイトを派遣する斡旋所と契約したのである。  それから週に三回の頻度で、掃除洗濯食事の準備と言った家事を頼んでいる。契約では一時間につき一五ユーロ。相場を見れば安くも高くもない値段設定だった。 「……ええっと、一応連絡ノートにも書いておいたんだけど、夏物のスーツとかシャツは全部クリーニングに出しておいたから。後、部屋の掃除と、夕食の準備は全部出来てる」  ハウスキーパー、家事代行。  その仕事内容は多岐に渡る。  主な仕事は掃除、洗濯。後は食事の準備ぐらいだろう。マルクの拘束時間はその日によりけりだが、だいたい四時間程度。  マルクはまだ現役の大学生で、昨年進学したばかりだと聞いた。人生経験は年数で言えばクカの方がよっぽど多い筈だというのに、家事のスキルは一人前の社会人のそれよりずっと秀でていた。掃除、洗濯はもちろん、料理だって一般家庭のものよりもずっと上手い。正直なところ、マルクが作り出す料理は元妻が作っていたそれよりも美味しく感じることがあるくらいだ。  彼の作るトマトスープは絶品だった。 「ありがとう、正直、君の料理は俺の楽しみの一つになっていてね。今日もそれがあるから早めに切り上げて来たんだ」 「どうも。今日は時間も余ったし、ちょっと凝った料理作ったよ。あ、あと、ビールもちゃんと買って冷やしてあるから。指定のチェコ産の奴。冷蔵庫の下段に、六本セットが入ってる」  お気に入りの銘柄の、あの麦の匂いがふと脳裏に蘇り、疲れ切ったクカの心が微かに跳ねた。歴史上の誰かが、酒を命の水だと呼称したがまさしくその通りだとクカは思う。  酒は命の水だ。  ストレスで疲弊した心と体を癒やしてくれる。  特に、故郷の味をしたビールは格段に旨い。 「それじゃあ、今日はこれで……」  と、高く通った鼻筋を紺のマフラーに埋めたマルクが、クカと入れ違いに玄関ホールに躍り出る。みっちりと生えそろった黒髪がひょこりと跳ねたその軌跡を目で追いながら、ふと、クカは口を開いていた。  よかったら、と続ける。 「ビール、一本持って行きなよ。いつも世話になってるお礼だ」 「嬉しいけど、これからまた別のバイトあるからさ。そっちに持って行っても良いけど、オーナーが嫌がるかもしれないし」  マルクは多忙な男だ。  何でも大学の学費を稼ぐのに、幾つものアルバイトを掛け持ちしているのだとか。奨学金も受けているが、それだけでは彼の通う学部の学費全てと生活費をまかなうには足りないのだ。  週に三回、クカの家で家事代行のアルバイト。その後は、夜から深夜にかけてバーでのアルバイトが控えているのだという。他の空いた日にも別なアルバイトがあるといい。おまけに奨学金を受給する為の最低限の成績を維持するために、勉強の手を緩めることも出来ない。マルクの、その今にも破裂してしまいそうなリュックサックの中には勉強道具が詰められているのだと聞いた。僅かな時間でも勉強に充てられるようにと持ち歩いているのだと。 「……そうか、それじゃあ気をつけて帰るんだよ。雨脚が少し強くなってきてたから、濡れて風邪引かないようにね」 「ありがと。それじゃ、いい週末を」  傘を手に取ったマルクは、爽やかな笑みを浮かべて玄関ドアの向こう側へと消えてしまった。 「ああ、良い週末を」  ドアノブの冷たい輝きに目を落としながら、人気のいなくなった玄関ホールにぼそりと言葉を落とした。 「ん、良い匂い」  電子レンジから取り出したのは、深めの皿に盛られたトマトスープ。大きめのミートボールと彩りの野菜をトマトベースのスープで煮込んだ一品だ。汗をかいたラップを剥げば、香しい豚肉と香辛料、それからトマトのどこか酸味の効いた匂いが混ざって空腹感を擽った。  瓶に残った麦酒の最後の一滴まで飲み干すと、ライスを盛った皿を電子レンジに放り込んだ。後は適当にスイッチを押すだけで、あっという間に炊きたてライスが復活する。  酔いは良い具合に回っていた。六本セットの内一本。約三〇〇mlのビールに含まれていたアルコールは、クカの機嫌を最上級に引き上げていた。まだ飲みたいと思うが、あまり飲み過ぎては明日に響くだろう。一本だけでは少ない気もするが、そこで止めないといけない。アルコールに依存するのは色んな意味でよろしくない。 (三年前には戻らないと決めたんだ)  妻と子がクカの元を去ってしばらく、クカは酷く塞ぎ込んできた。それもそうだ、やっと手に入れた大切な家族を一度に失ってしまったのだから仕方ない。後悔と失意の海からクカを引き上げてくれたのは、何を隠そうこのアルコールだった。故郷チェコの大地で育った麦の香りに救われながら、クカは次第にアルコールに依存するようになっていった。依存症一歩手前で正気に戻れたのは、奇跡だったと言えよう。  電子レンジ送る加熱終了の合図を受け取ると、クカはすっかり熱くなった皿を取り出して、香しい湯気立つミートボール・トマトスープの横に並べる。最後に冷蔵庫にしまわれていたサラダを引っ張り出して食卓の準備は終了。脂分を控えめにしろと言われているので、ドレッシングはかけない。僅かに塩をぱらりと葉物に投げかける。  静かな食卓だった。  四人家族が団らん出来る広さを持つリビングに、ただ一人。  きんと耳に痛い静寂から逃れるように、クカはテレビのリモコンに手を伸ばすと電源を点けた。ぱっと瞬く間に点いた大画面の液晶テレビには、週末の娯楽であるフットボールの中継映像が映し出されていた。赤と青のユニフォーム。雨の中戦う男たちは、すっかり水を含んだ最悪の芝の上で人の頭ほどのボールを蹴り転がし、白いネットの張られたゴール目指して突き進む。副審が振り上げる旗にわっと沸き立つ観客たちの歓声が空しくリビングルームに木霊する。  寂しい週末だ。  数年前は、このテーブルの対面には妻がいて、その隣にはベビーチェアに座る娘がいて、テレビを眺めながら家族団らんの一時を過ごしていたものだった。そうだ、あのユニフォーム。あの青いクラブチームをクカは熱心に応援していたのだったが、今ではその情熱もどこかに消えてしまっている。  ごろりと皿の上で転がるミートボールにフォークを突き刺し、熱々の肉汁に火傷しないよう気をつけながら香辛料たっぷりの肉団子を頬張った。  ああ何て旨いのか。  この冬の寒さのように身に沁みる孤独が、このトマトスープに溶けて消えていくようだった。  テレビの向こう側の歓声が一際大きくなった。どちらかのクラブが点を入れたのだろう。試合の結果などどうでも良かったが。  マルクはフットボールは好きだろうか。  そんなことを何となしに思った。

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